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Ultimate Music Album - 極 -


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Jimi Hendrix - The Jimi Hendrix Concerts:炎のライヴ'68~'70 -

ギタリストとして多くにミュージシャンに多大な影響を
与えたロック・ミュージックのパイオニア

 

" The Jimi Hendrix Concerts "にはサンフランシスコ、ロンドン、サンディエゴ、バークリー、ニュー

ヨーク市でレコーディングされたライヴ・パフォーマンスから選曲された曲が収められている

完全なジミ・ヘンのコンサート・パフォーマンスだけを集めて構成されたアルバムのリリースはこの

当時初めてだった

ホノルルでコンサート終えて、途中ロスアンゼルスに立ち寄ったあとジミ・ヘンドリックス・エクス

ペリエンスはサンフランシスコへと乗り込んだ

ウィンターランド・アリナーでのビル・グラハム主催の一連のコンサートに出演するためだった

1968年10月10日、11日、12日と1日2回ずつ行われたステージの模様はウォーリー・ハイダーによって

レコーディングされた

このショーはエクスペリエンス結成2周年記念にもあたり、彼ら多くの友人たちとのジャム・セッ

ションによってハイライトを迎えた

1日目の夜はジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディが登場し、エクスペリエンスと

何曲か共演、2日目以降はトラフィックスのクリス・ウッドとスティーヴ・ウィンウッドが華を添えた

" Are You Experienced? "のジャムの中ごろでのウッドのフルート・ソロ、そして" Tax Free " " Lover

Man "そのほかでのウィンウッドのキーボードは、この一連のコンサートでのハイライトとなった

ショーの大成功に気を良くしたビル・グラハムは、エクスペリエンスの各メンバーに指輪を贈った

ほどだった

 

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§ Recorded Music §
1 Fire - ファイアー
2 I Don't Live Today - 今日を生きられない
3 Red House - レッド・ハウス
4 Stone Free - ストーン・フリー
5 Are You Experienced - アー・ユー・エクスペリアンスト
6 Little Wing - リトル・ウイング
7 Voodoo Chile ( slight return ) - ヴードゥー・チャイル
8 Bleeding Heart - ブリーディング・ハート
9 Hey Joe - ヘイ・ジョー
10 Wild Thing - ワイルド・シング
11 Hear My Train a Comin' - マイ・トレイン・カミング

  

Jimi Hendrix Concerts

Jimi Hendrix Concerts

 

 

音楽的な相違による解散の噂される真っ只中の1969年2月24日、エクスペリエンスはロンドンのロイヤ

ル・アルバート・ホールで立派な演奏を観せた

おそらくこれが彼らの最高のステージであることを感じ取ったエクスペリエンスのマネージャー、マイ

ク・ジェフリーはファー・アウト・プロダクションのゴールド&ゴールド・スタインを雇い、このショー

の模様をフィルムに収め、録音するよう依頼した

しかし法律上の問題のために、残念なことにこのフィルムが陽の目を見る見通しはつかなかった

" Lover Men "に始まり" Stone Free "と続くこのショーは、さらに3曲のブルースを含む多くの曲へと

展開していった

その中の1曲、エルモア・ジェイムズのブルース・チューン" ブリーディング・ハート "はこのアルバム

にも収められている

ショーは" ジミ・ヘンドリックス・イン・ザ・ウエスト "にも収められている永遠の名作" Little Wing "

の熱演で絶頂に達し、ギターにデイヴ・メイスン、フルートにクリス・ウッド、ボンゴにロッキーと

いう顔ぶれで繰り広げられている" Room Full of Millor "のジャム・セッションで終わった

さらにエクスペリエンスとしては非常に稀なアンコールとして" 紫のけむり " " ワイルド・シング "

そして" ザ・スマッシング・オブ・アンプス "と名付けられた" アメリカ国歌 "のワイルドな演奏で

その夜の演奏は幕を閉じた

 





 

1969年5月24日にカリフォルニア州サンディエゴのインターナショナル・スポーツ・アリナで行われた

コンサートの模様がオリジナル・エクスペリエンスのほぼ最後のものであることは、その1ヶ月後に

行われたコロラド州デンバーでの最終コンサートを終えたことで明らかになった

このショーはウォーリー・ハイダーによってレコーディングされ、オリジナル・エクスペリエンスの

最後のレコーディングとなった

このコンサートでファンと警備員との間に少々いざこざがあったが、ジミはこう言って群衆を宥めた

" 落ち着いて!そこの人たち興奮しないように!ここに僕たちの小さな世界を築こうじゃないか "

" ファイヤー " " ヘイ・ジョー " " スパニッシュ・キャッスル・マジック "と演奏は続き、緊張していた

群衆も落ち着きを取り戻してステージの前や通路に腰を下ろした

誰かが" ブルースをやってくれよ! "と叫ぶとジミは" すぐにやってやるぜベイビー! "と応え" レッド・

ハウス "の素晴らしい演奏を披露した

さらに演奏は" I Don't Live Today "へと続きこの模様はアルバムで聴くことができるステージ最後の

" ヴードゥー・チャイル "で最高潮となり、そこにいた者すべてが笑顔で家路についたのだった

 

エレクトリック・チャーチ、バンド・オブ・ジプシーズなどで試みを終えた後、ジミ・ヘンドリックス

はエクスペリエンスから別れたノエル・レディングの穴を埋めるためにバンド・オブ・ジプシーズ

ベーシストであり、長年の友人でもあるビリー・コックスを伴い再びジ・エクスペリエンスの活動に戻る

この新しいグループはカリフォルニア州バークリーのコミュニティ・センターで1970年5月30日、2回

ショーを行った…このショーは再びウォーリー・ハイダーによってレコーディングされフィルムにも

収められた

このフィルムは後に" Jimi Plays Berkeley "として発表された

この2回のショーでは過去のエクスペリエンスの多くのスタンダード曲、バンド・オブ・ジプシーズ

の曲のほか" Freedom "や" Hey Baby ( New Rising Sun ) " " Pass it On "というタイトルでよく知られ

ている" Straight Ahead "の初期のヴァージョンなどが演奏され、" Straight Ahead "は後にジミ・ヘンの

死後に発表されたアルバム" クライ・オブ・ラヴ "に収められている

このショーのハイライトは" Rainbow Bridge "のアルバムに収められた" Hear My Train a Comin' "同様に

以前にも発表されている" ジョニー・B・グッド "のワイルドなヴァージョン、そしてこのアルバムにも

収められている" ヘイ・ジョー "のビューティフルなヴァージョンなどだった

 

1970年7月17日、同グループでニューヨーク市のランドルズ・アイランドにあるダウニング・スタジア

ムで行われた" ニューヨーク・ポップス・フェスティバル "に出演

このフェスティバルは、White Panthers、Young Lords the Yippiesなどのほか、多くのラディカル・

グループが占領し、3日間のイベントの収益をさまざまな運動の援助金にするよう要求した

実際に、この催しに加わった人々には次のようなチラシが手渡された

『 ようこそ兄弟姉妹諸君!このコンサートは人々のものです これは文化をすべて内包した共同会社が

コンサートの収益までも分配するはじめての機会です 』…しかしながら前売りチケットの売り上げが

思わしくなかったために、ラディカル・グループはゲートをブチ壊して人々をタダで会場に入れた

これを防ぐ方法はまったくなく、従って収益もゼロとなった

おそらくジミ・ヘンドリックスを含む出演グループの多くが、暴動を防ぐためタダでショーを行った

のだった

このショーの大部分を撮った" FREE "というタイトル・フィルム( " 音楽が死んだ日 " - The Days the 

Music Died というタイトルでも知られている )が作られた

しかし、この催しはまた財政上での失敗でもあった

ジミ・ヘンドリックスはこのフェスティバルの最初の夜に出演し" Stone Free "でショーを開始した

曲の終わりには、彼のマーシャル・アンプにローカルのラジオ・ステーションが飛び込んでくる

というハプニングまであった

ショーはさらに" Fire " " Red House "の名演奏へと移り、ほかにも新旧さまざまな曲が演奏された

ジミは手のつけようのない群衆にすっかり気を悪くし、最後の曲" Voodoo Chile "を何人かの友人たち

( アレン・ダグラス含む )に捧げる際に、タチの悪い客に向かって" 失せろ!彼らは俺の友達だ! "

と叫んで曲のほんの触りだけを弾いて、50分間の非常に短いステージを終えた

 

そしてその2ヶ月後、彼は睡眠薬の飲み過ぎの併発でロンドンによってこの世を去った