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Ultimate Music Album - 極 -


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Van Halen - ヴァン・ヘイレン -

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ヴァン・ヘイレンというと世界中のギター・プレイヤーに衝撃を与えたライト・ハンド奏法をはじめと

するエディ・ヴァン・ヘイレンの超絶・ギタープレイに尽きる部分が勿論あるが、一方で初代ヴォーカ

リスト、デヴィッド・リー・ロスのショービズ魂を生かしたポップ性の追求、二代目サミー・ヘイガーを

擁して新たなるハード路線を模索するといった以外にも柔軟なバンドとしてのヴァン・ヘイレン

ユニークさも忘れてはならないところである

 

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1973年ごろ、カリフォルニア州パサディナの高校にふたつの人気バンドがあった

エディとアレックスのヴァン・ヘイレン兄弟が在籍していたマンモス、そしてデヴィッド・リー・ロスが

率いたレッド・ボール・ジェッツ

やがてデイヴがエディのグループに引き抜かれ、マイケル・アンソニーが加わりバンドは4人になった

1975年にはバンド名をヴァン・ヘイレンと改名、ハリウッドを拠点にクラブ周りをしてライヴ演奏を

していった

あるとき、ゴールド・ウェスト・クラブという場所でバンドは、スターウッド・クラブの出演オーディ

ションがシークレットで行なわれていたことを知らされていない中、演奏を披露する

これが見事に合格となり、ヴァン・ヘイレンスターウッドのレギュラー・バンドとなった

一方でこの時期バンドはマネージャーとなるマーシャル・バールと出会い、またそのつてでキッスの

ジーン・シモンズを紹介されている

そしてバンドはジーン・シモンズの資金援助でデモを作成したりしていた

1977年11月、ヴァン・ヘイレンが演奏するスターウッドに、プロデューサーのテッド・テンプルマンと

ワーナー・ブラザーズ社長モー・オースティンが来店、演奏に感じ入った2人は即座にプロ・デビューを

約束、その翌日にはワーナーとの契約が取り交わされたという

 

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1978年、キンクスのカバー" ユー・リアリー・ガット・ミー "で衝撃的なデビューを飾ったヴァン・

ヘイレンは、同年デビュー・アルバム" 炎の導火線 "を発表、エディのライト・ハンド奏法など彼のギター

プレイが一際注目を集める中、アルバムは結果的に新人としては異例の150万枚のセールスを記録、

ヴァン・ヘイレンは一気に人気者となった

翌1979年セカンド・アルバム" 伝説の爆撃機 "を発表、同時にツアーを廻り人気を定着させていく

1980年サード・アルバム" 暗黒の掟 "を発表、このころからバンドの解散説が囁かれ始めた…理由は

圧倒的なギター・プレイヤーとして人気を誇るエディにデイヴが不満を持ち始めた、というものだった

しかしバンドはそうした噂をものともせず半年間に渡る全米ツアーをやり遂げている

1982年、アルバムに先行してリリースされたシングル" オー・プリティ・ウーマンロイ・オービソン

のカバー )"が全米12位のヒット、続いて5作目のアルバム" ダイヴァー・ダウン "を発表、そして

お馴染みのツアーという日々が続く

1983年になると単発的なステージはあったもののツアーはなし

そしてその年の12月に発表された6作目" 1984 "が、彼らのその後を左右する作品となった

シングル・カットされた" ジャンプ "は全米ヒット・チャート5週連続ナンバー・ワンを獲得、また

" ウェイト "や" パナマ "といったシングルもヒットし、アルバム自体も最高2位を獲得ヴァン・ヘイレン

押しも押されぬ超人気バンドなった

この影には8ヶ月のもおよぶ大々的な全米ツアーによる影響も大いにあった

 

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1985年に入ると、ややバンド周辺の雰囲気に変化が生じた

モントローズやソロで活躍していたサミー・ヘイガー、1986年にサミーを迎えての初作" 5150 "を発表

ここでも" ホワイ・キャント・ディス・ビー・ラヴ "などといったヒットを放ち、健在ぶりをアピール

したが、一方でデヴィッド・リー・ロス不在というぎこちなさも正直この時点ではあった

そうした不安材料を吹き飛ばしたのはヒット・シングル" ホエン・イッツ・ラヴ "を生んだ1988年発表の

" OU812 "、ここで新たなヴァン・ヘイレン・スタイルを完璧に定着させた

1991年に久しぶりにテッド・テンプルマンを迎えた通算9作目のアルバム" A@U#C%K "を発表、この時期

のハードなサウンドが大展開された快作となった

また、翌1992年にかけて行なわれたアルバムと同名ツアーの模様は2枚組ライブ・アルバム" ライヴ

ライト・ヒア・ライト・ナウ "として同年中に発表され、世界中のファンを喜ばせた

ややあって1995年になると全米1位を獲得することになる" バランス "を発表、プロデューサーに

ブルース・フェアバーンを迎えた同作で、ヴァン・ヘイレンは以前とは異なる新たなアプローチで再び

世界の音楽シーンの頂点に立った

 

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しかし、ここでバンドにまた大きな波乱が起こる…1996年のサミー・ヘイガー脱退である

同年リリースのベスト盤を挟んで、次作の" ヴァン・ヘイレンⅢ "からもとエクストリームのゲイリー・

シェローンが加入するが、1999年にレコーディング中に脱退しヴォーカリスト不在になる

その後、エディ・ヴァン・ヘイレンの癌、腰の手術などの影響でバンドは休止状態になる

2004年初頭、サミー・ヘイガーが電撃的に復帰し、ベスト・アルバムをリリースするがサミーとエディの

関係が再び悪化し、アルバム作りが進まない状態に陥る

2006年マイケル・アンソニーが、バンドが事実上の解散状態であることを告白、またマイケル自身

2002年に行われたサミー・ヘイガーとデヴィッド・リー・ロスによるカップリング・ツアーにサミーの

バック・バンドのメンバーとして参加したことを理由に解雇されていたこと、2004年の復活ツアーに

おいても正式なメンバーではなく雇われメンバーだったことなども告白している

同年11月には新ベーシストとしてエディの息子、ウルフギャングの加入が発表される

後に、オリジナル・メンバーであったデヴィッド・リー・ロスが復帰し、2012年2月に12枚目のアルバム

" ア・ディファレント・カインド・オブ・トゥルース "を発表、これはウルフギャング初参加の作品となる

2013年6月には、15年ぶりの来日公演を行ない、2015年には2013年の東京ドーム公演を収録したライヴ

アルバム" ライヴ・イン・ジャパン "をリリースしている

 

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