ウッドストック・フェスティバルは、1969年8月15日(金)から8月17日(日)までの3日間、アメリカ
ニューヨーク州サリバン郡ベゼルで開かれたロックを中心とした大規模な野外コンサートである
約40万人の観客を集め、アメリカの音楽史上に残るコンサートになると同時に、1960年代アメリカの
カウンター・カルチャーを象徴する歴史的なイベントして語り継がれている
30組以上のフォーク歌手やロック・グループなどが出演し、入場者は40万人以上…このロック・フェス
ティバルはアルスター郡ウッドストックにおけるアート・ムーヴメントに関連して名付けられた
近郊のサリバン郡ベゼルのロシア系ユダヤ人個人農場主マックス・ヤスガーの息子の了解を得られ、
所有する酪農農場が会場となった
この一帯は" キャッツキルバレー "と呼ばれるアメリカ・インディアンの共同居住区になる
主催者となった若者たちは、ボブ・ディランなどの往年のアーティストたちが暮らすウッドストックに
自分たちのレコーディング・スタジオを設立する資金集めの目的で、このロック・コンサートを企画した
1万人から2万人程度の入場者を見込んでいたが、多くの人気ミュージシャンから出演の承諾が得られた
ことから、事前に18万6,000枚のチケットが売れ、当日の入場者は20万人を超えると予想された
実際はそれをはるかに上回る40万人以上が詰めかけ、半数以上は入場料金を払わなかったため事実上
無料イベントの様相を呈した
会場への高速道路は、会場に向かおうとする人々でごった返し、この週末は雨の上に施設は人が混み合い
参加者は食べ物などを分け合っていた…暴力事件などの報告はなし
度重なる雨による中断のためプログラムが遅れてしまい、最終日のトリを務めたジミ・ヘンドリックスが
登場したのは月曜日の朝、8時30分だった
それまでに帰った人もいたので、彼らはジミ・ヘンドリックスの演奏を見ることができなかったが
このときのジミ・ヘンドリックスの演奏は1999年にほぼ全曲がアルバム" ライヴ・アット・ウッド
ストック "として発表されている
ウッドストック・フェスティバルは、カウンター・カルチャーを集大成した1960年代のヒューマン・
ビーインと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、音楽イベントとしてのみならずヒッピー時代の
頂点を示す象徴とも捉えられている
このコンサートの模様は、『 ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間 』というドキュメンタリー映画
として公開されている
マイケル・ウォドレー監督、マーティン・スコセッシ編集の映画は1970年に公開され、アカデミー長編
ドキュメンタリー映画賞を受賞した
ウッドストックには愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者ら約40万人が集まった
しかし、初の大規模な野外コンサートであったため、現代の観点で捉えれば混雑など至らない点も多く
ヒッピーの中にはドラッグを使用する観客もいたが、規模と観客数の膨大さに比べれば驚くほど平和的
な祭典だった
また、食料や清潔な水の供給、雨天を避ける手段も充分とはいえずトイレや緊急用のテントなど必要な
施設も多くなかった
フェスティバルの計画段階では、これだけ多くの人が集まるとは考えておらず、そのための準備が
まったくできていなかったのである
フェスティバル終了後のゴミ問題も大きな問題だったが、観客の中にはゴミを片付けて帰る者もいた
町の住民からは" ヒッピーが集まるヤスガー祭 "と警戒され、場所を提供した農場主のヤスガーには、
反対派の住民によって開催前から牛乳の購入打ち切りなどの嫌がらせを受けたという
とはいえ、少なくとも同年12月6日に開かれ死者まで出したローリング・ストーンによるフリー・
コンサート( オルタモントの悲劇 )とは対象的に、1960年代を体験した同世代のアメリカ人の" 輝か
しい記憶の余韻 "として生き続けたとされている
1973年の石油ショックが起き、その後の不況でヒッピーや反体制的な若者は減っていった
アメリカの理想の終焉を見せつけたのが、ウォーターゲート事件に起因する1974年の大統領リチャード
ニクソンの辞任であり、1975年に終戦を迎えたベトナム戦争におけるアメリカの敗戦である
1979年にウッドストック10周年記念コンサート( ウッドストック・リユニオン )が開かれたのに続き
1989年、1994年、1999年にコンサートを開いている
特に1994年の25周年は" ウッドストックⅡ "と呼ばれ、ボブ・ディランやクロスビー・スティルス&
ナッシュらが出演し、約30万人を集めた
❏❏ ウッドストック 1999 ❏❏
ウッドストック 1999は、1999年7月23日から7月25日にかけてニューヨーク州ロームで開催された
ロック・フェスティバルで、1969年のオリジナル・ウッドストック( 上述 )の成功を模倣しようとした
ウッドストック 1994に続く2度目のフェスとして行なわれた
コンサートは、環境再生計画区域となっていたグリフィス空軍基地の跡地を、主催者が借り切って開催
され、過去のウッドストックではチケットを購入せず入場する行為( ゲート・クラッシング )が常習化
していたため、開催に先立ちその防止が徹底された
主催者側は、チケットを持たない者からの" 自己防衛 "として、会場の外周を高さ3.7mの合板とフェンス
で取り囲んだほかに、追加の保安要員として約500人のニューヨーク州警察隊員をフェンスの沿って
配置した
メイン会場となった2つのステージのほかに、二次的な会場もいくつか用意され深夜にはレイヴ・
イベントも行なわれた
また空軍の旧格納庫では、インディーズ系映画会社の主催する映画祭も催された
ウッドストック 1999は、実験的な" ベンチャー事業 "として立案され、数多くのスポンサー企業を募って
開催された規格に基づくイベントだった
そのため、ロック・フェスティバルであるとともに、複合商業施設や銀行ATM、インターネット関連の
サービスなど、スポンサー企業による" 近代的な製品の活用 "という要素も兼ね備えていた
このようなイベントには前例がなく、予測できないコストの増加が懸念されていたため、主催者側は
チケットを150ドルに設定し入場後に観客が支払うサービスの利用料に対してコストの上乗せを行った
観客動員数は40万人だった
当初、フェスティバルは行なわれた演出の多くは、好意的な評価を得ていた
特にジョージ・クリントン、ジャミロクワイ、ジェームス・ブラウンなどなどのパフォーマンスは、
評論家からも称賛され、6年ぶりに同じステージに立つメタリカとメガデスというラインナップも
注目を集めていた
しかし、開演が進むに連れて急速に悪化する群衆と会場のほうが、より大きな注目と批判を集めるように
なっていき、暴徒化した観客による暴力と略奪、そして放火により大混乱に陥り、その荒廃した様子が
メディアによって大きく取り上げられる結果となった