北アイルランド出身のロック・ギタリスト
" Robert William Gary Moore "
ゲイリー・ムーアは1952年7月14日、北アイルランドのベルファストに生まれた
父親の職業が音楽プロモーターということもあってか音楽的に充実した幼少期を過ごしたそうだ
7歳のころからピアノのレッスンに通い始めるが、習い始めてから4年目のある日、講師と衝突しレッスン
に通うのを放棄してしまう
そのときすでにジョン・メイオールやエリック・クラプトンに入れ込んでいたゲイリーは、当然のように
ギターを手にすることになる
1966年それはまだゲイリーが14歳のころ、ダブリンで人気を博していたメゾットというバンドに参加する
その後はスキッド・ロウに参加、1970年に" スキッド "、1971年には" 34時間 "をリリースするが当時は
さほど話題にならず、後の活動から評価される向きのほうが強いようだ
とはいえ、このときゲイリーは若干17歳、世のギター・ファンに一目おかれる存在になったのは
いうまでもない
1972年には自らのバンド、ゲイリー・ムーア・バンドを結成、" グライディング・ストーン "を73年に
リリースするが、この名義でのリリースはこの1枚のみ、メンバー間の不仲により空中分解してしまう
スキッド・ロウに一時期ヴィーカリストとして参加していた仲のフィル・ライノットからシン・リジィ
加入のオファーを受け、これを快諾したゲイリーだが数曲の録音に参加しただけで在籍期間4ヶ月という
短さでシン・リジィを脱退している
理由は自らの理想のバンドが見つかったからとのこととされている
その理想のバンドとはテンペストを解散させたジャズ・ドラマー、ジョン・ハイズマンらとともに結成
したコロシアムⅡのことである
1976年に" ストレンジ・ニュー・フレッシュ "、1977年には" エレクトリック・サヴェージ " " ウォー・
ダンス "と3つの作品を残している
ジャズからフュージョン的要素の強いこれらの作品だが、アル・メディオラのプレイを例えに出せば
納得できるが、いずれもロック・ファンが聴いても充分に刺激的な作品である
1977年には再びシン・リジィに参加、とはいえこのときはブライアン・ロバートソンの代役という形
だったのでツアーのみ参加に終わる
そして初のソロ名義アルバム" バック・オン・ザ・ストリーツ "を制作、1979年には遂に正式メンバー
としてシン・リジィに参加し" ブラック・ローズ "をリリース、このアルバムが最高傑作との誉れ高いのも
ゲイリーが参加したからという大方の意見に異論を挟む者はいないだろう
だが、ここでのゲイリーの功績も虚しく、かねてからドラック癖の抜けないフィル・ライノットに愛想を
尽かしシン・リジィを脱退している
その後、ロサンゼルスに渡ったゲイリーはGフォースを結成し、1980年に" G Force "をリリース、
アメリカのマーケットを意識した内容から意図的なポップ感も否めないが、ゲイリーのプレイはもちろん
悪くないのだが、ほかのメンバーの実力不足もあり、この名義は1年足らずで終焉を迎える
再びソロ・アーティストとして歩んでいくことを決意したゲイリーは、1982年に" 大いなる野望 "を
リリース、これまで培ってきたものをハード・ロック・サウンドにまとめ上げ、完全なる個性を確立し
その評価を不動のものとした
1985年には" ラン・フォー・カバー "をリリース、この作品にはかつて袂を分けたフィル・ライノット
との共演ナンバーも収められている
1986年には日本のアイドルであり" 1986年のマリリン "でお馴染みの本田美奈子のシングル" 愛の十字架 "
に参加、ゲイリーが作曲、自らギターをプレイしたことも話題になり、後にゲイリーが同曲をセルフ・
カバー、" クライング・イン・ザ・シャドゥ "としてリリースしている
1987年には" ワイルド・フロンティア "をリリース、自らの血であるアイルランドのトラッド旋律を取り
入れさらにサウンドの巾を広げた
そして1989年、結果的にハード・ロック時代のラストとなる" アフター・ザ・ウォー "をリリース、
ゲイリーのギタリストとしての一応の完成形が垣間みれる
1990年代…新たな時代とともにここからはゲイリーのブルース時代の幕開けである
本格的なブルース・アルバム" スティル・ガット・ザ・ブルース "をリリース、過去の名曲のカバー中心の
作品だが、全世界で300万枚を超えるセールスを記録する大ヒット・アルバムとなった
続く1992年の" アフター・アワーズ "も前作を踏襲したブルース作品で、ゲイリーはブルース・マンの
称号も手中に治める
1994年には元クリームのリズム隊、ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーとともにニュー・バンド
BBMを結成、" 白昼夢 "をリリースし往年のファンを熱く唸らせた
1995年には師匠ピーター・グリーンに捧げた" ブルース・フォー・グリーニ "をリリースする
このままブルース路線でいくのであろうという皆の予想を裏切り、1997年の" ダーク・ディズ・イン・
パラダイス "、1999年の" ディファレント・ビート "では当時流行していたドラムンベースやテクノなど
打ち込みを取り入れた作品でファンを驚かせたが、2001年の" バック・トゥ・ザ・ブルース "ではタイ
トル通り再びブルースに立ち戻りファンを安心させた、が、不幸は突然やってくる
2011年2月6日、休暇先のスペインにて心臓発作で急逝、2月23日15年暮らしていたブライトンで葬儀が
行われた
亡骸はミュージシャンである息子のジャック・ムーアが" ジャック・ボーイ "を演奏して埋葬された
長いギター歴の中、ブルース・ロックからハード・ロック、ジャズ、フュージョン、ブルース、クラブ・
ミュージックと音楽性を時代に合わせ、シフトしていきながらも変わらないことがひとつだけある
ゲイリーのギターからは感情があふれ出ているということだろう