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King Crimson - キング・クリムゾン -

プログレッシブ・ロックで重要な位置に格付け
されているKing Crimson

 

ピンク・フロイドやイエスなどとともにプログレッシブ・ロックの代表格として数え上げられるキング・

クリムゾン、その中心となるロバート・フリップの独特な思考法や、ハッキリとしたテーマを掘り

下げた音楽的探求の手法は、現在もほかに類をみないスタイルだ

また、クリムゾンが伝説として語られる要因は、彼らが現れた60年代後期から70年代初期にかけて

彼らの音楽がロックの概念自体を揺るがすような刺激に満ちていた、ということが挙げられる

キング・クリムゾンの母体となるジャイルズ・ジャイルズ&フリップが結成されたのは1967年のこと

だった

イギリス・ボーンマスのカレッジに通いつつ、またパブでアルバイトをしながらリーグ・オブ・

ジェントルメンで活動していたロバート・フリップ、後にクリムゾンの中心となる彼は、かの地で

トレンドセッターズ・リミテッドというバンドに在籍していたマイケルとピーターのジャイルズ兄弟と

出会いリハーサルを開始、その年の秋に3人はロンドンに進出するが、たいした仕事を得ることもなく

レストランでシンガーのバック・バンドを務めるといった活動にとどまった

 

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1968年に入りジャイルズ・ジャイルズ&フリップと名乗るようになった彼らは、間もなくデッカ・レコード

と契約にこぎつけ、6月には元インフィニティのイアン・マクドナルドと、その恋人であるジュディ・

ダイブルがグループに加わりレコーディング、9月に早くも" ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ "を発表

したが、この直後ジュディが抜け、イアンの友人で元インフィニティのピート・シンフィールドが加入する

ピート・シンフィールドの提案でキング・クリムゾンと改名することを決めたグループだったが、

このころピーター・ジャイルズが脱退、新たに元ゴッズのグレッグ・レイクが加入している

そして翌1969年に入りいよいよクリムゾンの歴史が始まる

 

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1969年初頭からリハーサルを重ねたクリムゾンは、同時期にEGミュージックに席をおくことになり

また春までに彼らは2度のギグを行い、その凄まじく斬新なプレイで音楽関係者の間で大評判を得た

そして、彼らは当初トニー・クラークのプロデュースによりデビュー・アルバムのレコーディングを開始

このときは結果的に" トニーが手に余るグループ "として手をひき録音が中断されたため、夏ごろから

セルフ・プロデュースにて録音をやり直している

1969年10月デビュー・アルバム" クリムゾン・キングの宮殿 "はリリースされ、狂気すらにじむ名曲

" 21世紀の精神異常者 "などを収録した本作は、発表当初から各方面にて高い評価を得た

そして70年2月、あのビートルズの" アビー・ロード "を押さえ全英チャート首位に、早くもキング・

クリムゾンは来るべきプログレッシブ・ロックの時代を代表するグループとなったのだった

" クリムゾン・キングの宮殿 "発表後、グループは全英そして全米ツアーに出る

しかし、このアメリカ・ツアーでの体験に大きなプレッシャーを感じたイアンとマイケルがロサンゼルス

滞在時にツアー終了時の脱退を表明、ロバート・フリップはこのとき自分が抜けるので2人にグループを

続けるよう説得したといわれているが、帰国後結局2人は脱退

また、このころからグレッグ・レイクが渡米時に意気投合したキース・エマーソンとグループを結成

するのでは( 後のEL&P )、という噂が流れ始める

セカンド・アルバムの制作に着手し始めたフリップとシンフィールドは、グループにメンバーが流動的な

こともあって、英ジャズの俊英キース・ティペット(p)、ピーターとマイケルのジャイルズ兄弟、

元サーカスのメル・コリンズ(sax,fl)、元フルール・ド・リス、キューピット・インスピレーションの

ゴートン・ハスケルを迎い入れて" ポセイドンのめざめ "をレコーディング、同作は1970年5月に

リリースされた

しかし、このアルバム発表前にグレッグ・レイクがかねてから噂のあったEL&P結成のために脱退、

マイケル、ピーターのジャイルズ兄弟もイアン・マクドナルドとのマクドナルド&ジャイルズ結成の

ためにフリップのもとを去っていった

 

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流動的な形態というグループの形を早くも見せ始めたクリムゾンは、1970年12月にサード・アルバム

" リザード "を発表、ここでのメンバーはロバート・フリップ、ピート・シンフィールドという両巨頭に、

メル・コリンズ、ゴードン・ハスケル、アンドリュー・マカロックという顔ぶれで、さらに多数のゲスト

を迎えて完成させている

しかしアルバム発表2日後にハスケルが、次いでマカロックが脱退する

1971年の年明け前後に、クリムゾンはオーディションを行い新たな人選を行う

加わったのは元ニール・イネス・ワールドのイアン・ウォーレス、新人のボズ・バレルの2人、ボズ・

バレルにおいては、もともとヴォーカリストとして起用したにも関わらず、同時期に加入したリック・

ケンプ(b)が2回のリハーサルのみで脱退してしまったため急遽ベーシストの座につくことになった

メンバーを整えたクリムゾンは1971年にライヴ活動を再開、欧米ツアーを廻りながらその最中にレコー

ディングされた通算4作目のアルバム" アイランド "を同年12月にリリース、また翌年1972年2月~4月

アメリカ・ツアーを行った彼らは、そのツアーの際に録音されたライヴ音源をライヴ作" アース

バウンド "としてイギリスで6月にリリースもしたが、これは音質が劣悪だったためアメリカのレーベル

アトランティックが発売拒否、また日本でも当初は発表されず終いだった

この出来事と前後するが" アイランド "発表時点での初期のクリムゾンにおけるコンセプチュアルな部分で

重要な役割を果たしたピート・シンフィールドが脱退、またアメリカでのツアーを終えたクリムゾンから

コリンズ、バレル、ウォーレスの3人も脱退している

 

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グループ内の軋轢からグループが分解された状態となったキング・クリムゾンは、ロバート・フリップ

中心に再編される

元イエスビル・ブラッフォード、元ファミリーで旧友のジョン・ウェットン、元リングスのデヴィッド

クロス、元アサガイ、サンシップのジェイミー・ミューア、そして作詞担当としてウェットンの旧友

リチャード・パーマー・ジェイムズが加入、強力な布陣となったクリムゾンは1973年3月に" 太陽と戦慄 "

を発表、同作は高い評価を受けたが前年の1972年11月からスタートしていたイギリス・ツアー中の

1973年2月にミューアがライヴ・ステージから転落、ツアーの残りを4人で務めるというアクシデントも

あった…結局ジェイミー・ミューアはグループ脱退

1973年暮れにツアーを終了した4人は、次作の制作に入り翌1974年3月に" 暗黒の世界 "を発表、イギリス

アメリカ・ツアーに入るが、7月のニューヨーク公演を最後にデヴィッド・クロスが脱退、結果グループ

は7月から残り3人で新作のレコーディングに入る

イアン・マクドナルドやメル・コリンズといった元メンバーたちに加え、ロビン・ミラーらといった

ゲスト陣を迎え作品は完成、その作品" レッド "は1974年10月に発表される

しかし、ここでフリップが突然の解散表明、キング・クリムゾンの歴史は6年ほどで一旦幕を閉じる

こととなった

またその解散後には1974年にアメリカ・ツアーの模様を収録したライヴ・テイクに、エディ・ジョブソン

のプレイをオーバー・ダビングして作られたライヴ・アルバム" キング・クリムゾンUSA "が発表され

たり、ベスト盤" 新世代の啓示:キング・クリムゾン・ベスト "がリリースされたりしている

 

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キング・クリムゾン解散後、ロバート・フリップはさまざまなアーティストたちとの交流やソロ活動を

経て、かつて在籍したグループと同じ名を持つリーグ・オブ・ジェントルメンなるセッション的な

グループで活動した後、頭の中に着々と構想されていた新たな試みを実行に移すべく、1981年年明けから

メンバー集めを開始、ビル・ブラッフォードエイドリアン・ブリュートニー・レヴィンというメンツ

ディシプリンを結成し活動を始める

もともとはクリムゾンを名乗るつもりはなかったというこのグループだが、1981年4月のライヴを皮切り

にその後行われたヨーロッパ・ツアーの中で、グループ名をキング・クリムゾンに改めた

新生キング・クリムゾンは1981年10月にアルバム" ディシプリン "を発表、ギター・ミュージックに

こだわった新たなアプローチによるサウンドで話題を呼んだ

その後クリムゾンは1982年6月に" ビート "、1984年4月には" スリー・オブ・ザ・パーフェクト・

ペアー "を発表、しかしこの作品発表後、ツアーを行っていたクリムゾンは帰国後フリップによって

あっさりと解散を宣告されることになった

理由は自ら打ち立てたコンセプトが作品として全うされたというものだった

 

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一時期は、フリップの妻トーヤとのプロジェクト、サンディ・オール・オーバー・ザ・ワールド、

あるいはクリムゾン加入が噂されていた元ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンとのシルヴィアン・

フリップあたりが次期のキング・クリムゾンに発展していくかに思われたが、結果的にそれは1994年

1月の正式な復活表明によって覆された

第七期とされる新生キング・クリムゾンは、フリップのほかエイドリアン・ブリュー、ビル・ブラッ

フォード、トニー・レヴィンに加え、ギター・クラフトというフリップ主宰のギター・スクールやオール

オーバー・ザ・ワールドにも関わっていたトレイ・ガン、元Mr.ミスターのパット・マステロットという

6人から成り、ギター・ベース・ドラムが各2名づつというダブル・トリオの編成だった

1994年、編集盤の" スリー・プレス~コンサイス・キング・クリムゾン "リリースと同時にミニ・

アルバム" ヴルーム "をリリースし、再始動した90年代のクリムゾンは、1995年3月に早くもフル・アル

バム" スラック "を発表、4月からワールド・ツアーを開始した彼らは前年の1994年10月にアルゼンチンで

行われたステージをDATで録音したというライヴ作" Bブーム・オフィシャル・ブートレッグ "をツアーの

最中にリリースする

 

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この後の90年代クリムゾン作品は1996年に発表された" スラックアタック "にとどまり、あとは過去の

音源が発掘リリースされたりしていた

2000年には" コントラクション・オブ・ライト "を発表、2002年にはヌーヴォー・メタルなる新たな

アプローチを試み、ミニ・アルバム" しょうがない "を発表、新作への布石となった

そして2003年前述したヌーヴォー・メタルの全貌が明らかとなるフル・アルバム" パワー・トゥ・

ビリーヴ "がリリースされている

" 刺激 "が当時のキング・クリムゾンに明確に存在するかといえば、なかなかそうはいえないというのが

本当のところで、彼らが到達しえた地点にあるような刺激は再生産が許されないような性質を持っている

ため、常に真の意味でプログレッシブな音楽を志向せざるを得ないといった厳しさが伴う

しかしながらロバート・フリップは、その知性を駆使しつつ自らの音楽に殉ずるかのようなシビアな

佇まいを壊すことなく音楽に対面しているし、これからも自らの業でもあるかのように唯一無比なキング

クリムゾンの音楽を発動させ続けるに違いない

 

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