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Ultimate Music Album - 極 -


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Takeshi Terauchi - 寺内タケシ -

通称" エレキの神様 "
座右の銘は" ギターは弾かなきゃ音が出ない "

 

5歳のときから寺内は、母の三味線を手本にギターを練習、より大きな音が出るギターを作ろうと

電話機を改造してエレキ・ギターを自作した

このとき、空襲警報用のスピーカーを使ったために近所の人が防空壕に避難してしまい、父親が憲兵

連行されてしまったという

このようなこともあり、寺内は9歳のときを皮切りに合計10度、父親に勘当されたという

高校時代バンドを結成したところ、父親から" 一度でも一科目で一番を取れば、好きなだけギターを

やってもよい "と懇願され勉強し、期末テストで1位を取ったところ父親から" お前はやればできるんだか

ら、このまま成績を保て "といわれたが、寺内は" やれば出来るんだからやらない "と勉強をやめたそうだ

✽       ✽       ✽

❐❐ クレージー・ウエストからマウンテンボーイズ ❐❐
米軍キャンプでプレイし、ミッキー・カーチスと出会ったのを機に彼のウエスタン・バンド、クレー

ジー・ウエストに参加、寺内の加入後にほかのメンバー全員が脱退したため、新メンバーを集め復活、

札幌のジャズ喫茶での公演前に岩倉忠が入院したため代わりのベーシストとして碇矢長一( 後の

いかりや長介 )を採用した

これが当時のロカビリーをやっていた碇矢のウエスタンへの転身だった

その後、米軍上瀬谷キャンプでジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのベースをしていた碇矢と

再開して寺内も移籍したが、やがて時田からクビを宣告される

これは、このころブームになっていたロカビリーに参入するための事務所" 東京ハワイアンズ "の作戦で

寺内は1962年8月、ほりまさゆきがヴォーカルを担当するロカビリー・バンド、寺内タケシとブルー・

ジーンズを結成する

 

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❐❐ ブルー・ジーンズ結成 ❐❐
1962年の結成当時はロカビリー色が強かったブルー・ジーンズだが、1963年1月のステージ転落事故を

機にエレキ・バンド化を決意、メンバーを入れ替え日本楽器( 現ヤマハ )に自らの設計図を持ち込んで

日本初のエレクトーンの開発を依頼した

このころ、内田裕也ザ・スパイダースのセカンド・ギターだった加瀬邦彦が加入している

また当時、追っかけをしていた安岡力也が演奏中に騒いだ観客を" もっと黙って聴けよ、ほかの観客が

迷惑しているじゃないか "と一喝したエピソードがある

1966年、日本公演中のベンチャーズドン・ウィルソンが、息子の落馬死亡事故で帰国したため、

寺内が代役でリズム・ギターを務めた…このときノーキー・エドワーズ使用のライトゲージ弦を知る

それまで寺内は、太い弦でチョーキングをするため指立て伏せなどで鍛えていたという

1965年、日劇エスタンカーニバルの音響監督に就任したことで知名度が上がり、エドサリヴァン

ショーへの出演を依頼されたが、多忙のため実現しなかった

また、このころアメリカの音楽雑誌" ミュージック・ブレーカー "で、チェット・アトキンス、レス・

ポールと並んで" 世界三大ギタリスト "に選ばれた

ヤマハから寺内のオリジナルモデル" SG7'( 通称:ブルー・ジーンズ・カスタム )"が発売されたが

最初は寺内の許可がなく、ブルー・ジーンズの名を冠していない

このころから" 津軽じょんがら節 "に代表される民謡にも取り組み、エレキ・ギターで民謡を演奏する

独特の" エレキ民謡 "に取り組んだ

植木等の" 遺憾に存じます "のバック・バンドを務め、1965年のNHK紅白歌合戦に出場しているほか

加山雄三主演映画『 海の若大将 』『 エレキの若大将 』にも出演している

 

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❐❐ バニーズ誕生・第2期ルー・ジーンズ ❐❐
渡辺プロダクションとの確執などからブルー・ジーンズを脱退し、音楽プロダクション" 寺内企画 "を

立ち上げ、輿石秀之らを迎えてインストと歌を両立させたGSバンド、寺内タケシとバニーズを結成する

その後、バニーズを脱退して第2期ブルー・ジーンズを結成、一方で、第1期ブルー・ジーンズがメンバー

チェンジの末、田川譲二をリーダーにしたムード歌謡調の曲もこなす末期GSスタイルで活動していた

ため、一時は商標問題が起きた

1970年、メンバーを若手に一新して第3期に入って以降は、メンバー・チェンジを繰り返し現在に

至っている

 

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❐❐ エレキ禁止令への対抗と社会的貢献 ❐❐
第1期ブルー・ジーンズ結成後しばらくして、エレキ・ギターやグループ・サウンズは非行化の温床だと

いう声が広まり、多くの学校でエレキ・ギターが使用禁止にされた

高校生から寺内に手紙が届くようになり、寺内は各地の高校を訪ねたが、ほとんどは門前払い、校長が

話を聞いてくれたのは3校だけだった

そこで寺内は母校の土浦高校を訪ねると暖かく迎えられ、寺内はブルー・ジーンズとともに母校で演奏

した…これが現在1500校を越えようとしているハイスクール・コンサートの第1校目であった

そうした中で1967年に" レッツ・ゴー・運命 "のリメイクで第9回日本レコード大賞編曲賞を受賞し

理解が広まったという

 

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1976年にはロシア在住の白血病の8歳の少女に生演奏を聴かせるため、3,000万円の赤字を覚悟でロシア・

ツアーを決行したものの、この最中の9月6日の" ミグ25事件 "が起きたが、52日間のツアーが続けられ

42万人の観客を集めた

この功績が認められ1981年12月22日には日本国際連合協会から感謝状と国連平和賞、84年には文化

功労賞と音楽功労賞をそれぞれ授与された

 

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1981年には4年後に開かれた" つくば万博 "のグランド・プロデューサーに就任、万博の基本構想から

会場のレイアウト、テーマ・ソングの作曲、万博に参加する予定の国でのコンサート・ツアー、常磐

高速道路・一般道路の整備、宿泊施設、鉄道から会場周辺の上下水道の整備、VIPの待遇、跡地の

再利用など多岐にわたる仕事を無報酬でこなした

エレキが世間に認められるようになると、本格的にハイスクール・コンサートを始めとする活動を

積極的に行うようになり、1978年に第20回日本レコード大賞企画賞、2000年にはハイスクール・

コンサート1,000校の功績に対しスポニチ文化芸術大賞、同年5月には中曽根文部大臣(当時)から

感謝状を授与されている

 

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