U.K. - イングランド出身のプログレッシブ・バンド
1970年代後期、当時実力派プレイヤーが集結して結成
パンク・ムーヴメントが勃興して既存の音楽が収束する中、ブリティッシュ・ロックの最後を飾る
大物として存在感を示した
解散後のそのコンセプトは次代のグループ、エイジアへと受け継がれた
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元キング・クリムゾンのメンバーであるジョン・ウェットンとビル・ブラッフォードがキング・クリム
ゾンのようなインプロヴィゼーション主体のロックを再びプレイしようと話したことに端を発する
当初は元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルドが参加するともいわれていたが実現しなかった
1976年、EL&Pを発展させた音楽を作って市場を開拓しようというコンセプトのもとウェットンと
ブラッフォードは、元イエスのリック・ウェイクマンを誘いキーボード・トリオ編成での活動を試みるが
レコード会社の問題、マネージメントの問題で数週間のリハーサルのみで挫折、このときにリハーサル
された曲の一部は、後にブラッフォードのソロ・アルバム" フィールズ・グッド・トゥ・ミー "にて
別のアレンジで公開されている
1977年、ウェットンがロキシー・ミュージックで一緒になったエディ・ジョブソンに参加を打診、
リハーサル途中でギタリストの必要を感じたのでブラッフォード自身のソロ・アルバムに参加していた
アラン・ホールズワースを誘い、ファースト・アルバムに参加する4人のメンバーが決定した
1978年、このメンバーによるファースト・アルバム" U.K.( 憂国の四士 )"をリリースしツアーを行い
ツアーでは新曲も披露されるがこの時点での音楽性の不一致は隠せないものとなり、ホールズワースが
解雇されることになり、ブラッフォードも脱退する
ブラッフォードとホールズワースは、よりジャズ/フュージョン的な音楽性を求め、フュージョン・
バンド、ブラッフォードを結成する
1979年、セカンド・アルバム" デンジャー・マネー "をリリース、同年5月に向けて初来日、来日公演での
ライヴ・アルバム制作に伴い公演を録音、同年の本公演のライヴ・アルバム" ナイト・アフター・
ナイト "をリリースするものの徐々にジョブソン色が強くなっていく中で、ウェットンとジョブソンの
方向性に違いが生まれ翌年ツアー後に解散した
ウェットンによると" 日本の異様な人気で、エディが有頂天になってしまい手がつけられない状態に
なったいた "という
解散以降、ウェットンはジェフ・ダウンズ、スティーヴ・ハウ、カール・パーマーとエイジアを結成、
ジョブソンはソロ活動へとシフト、スティーヴ・ホジオはフランク・ザッパ時代からの同僚らと新たな
グループ、ミッシング・パーソンズを結成した
1995年にジョブソンとウェットンでU.K.を再結成するというニュースが広まり、インターネットを通じて
ドラマーにカール・パーマーが決定したとの情報が流れたが、直後にウェットンはそれは根拠のない
デマだと否定
1996年からジョブソンとウェットンで録音開始、ブラッフォード全面参加、ロバート・フィリップ参加
ブルガリア女声合唱団をフィーチャー予定など報じられたが、ジョブソンの作業の遅れと、ウェットン /
ジョブソンの中違いによりU.K.は空中分解状態となる
結局この音源の一部はウェットンのベース、ヴォーカルなどを差し替えるなどしてジョブソンのソロ
名義で" ヴォイセズ・オブ・ライフ "として2000年に発表された
2007年、ジョブソンを中心として元キング・クリムゾンのトレイ・ガン、アレックス・マカセックら
5人編成でU.K.を受け継ぐバンドUKZの結成が発表された
2009年、UKZとしてジョブソンにとって30年ぶりの来日公演が行われる
その後、ジョブソンが新たに結成したエディ・ジョブソンズ・U-Z・プロジェクトのポーランドのライヴ
において、ウェットンとの共演が実現した
2011年、ジョブソンとウェットンを中心とした正式な再結成を果たす
4月、2度のアメリカ公演の後、U.K.名義では1979年の初来日公演後32年ぶりで2度目の来日公演を実施
東日本大震災の影響などにより開催が懸念されたが、メンバーの思いもあり催された
2015年、ファイナル・ツアーを開催し4月の来日公演も行い、そしてこの年をもって再度の活動休止
2017年、この年にオリジナル・メンバー、ジョン・ウェットンおよびアラン・ホールズワースが死去、
エディ・ジョブソンは、これらさまざまな要因を理由にライヴ活動からの引退を表明し事実上バンドの
存続が消滅した
∈ U.K.の音楽性 ∋
ファースト・アルバムでは、ブラッフォードやホールズワースのもつジャズ/ロック的要素、ジョン・
ウェットンの持つハード・ロック的要素、シンセサイザーやエレクトリック・ヴァイオリンを用いた
エディ・ジョブソンのインストゥルメンタル的要素が絡み合い、ジャズとロックの要素がほぼ均等に導入
された楽曲とアレンジを聴くことができる
セカンド・アルバムではブラッフォードやホールズワースがいないせいもあってか、インプロヴィゼー
ションの要素は後退し、ウェットンが当初考えていたEL&Pを発展させたような音楽を作り上げている
U.K.結成時の音楽シーンはパンクやニュー・ウェイブといったジャンルが主流であり、1960年代 -
1970年代のプログレッシブ・ロック的な雰囲気を多く残し、演奏技術を全面に押し出す作風は時代遅れの
ものとして映っていた
日本およびヨーロッパでは歓迎されたものの、音楽の最大マーケットであるアメリカやバンド母国である
イギリスではセールスにつながらなかった
結果としてバンドは解散するが、これを踏まえた形でジョン・ウェットンは1981年にポップ性の強い
エイジアを結成する