" ジャズ "は西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽
スピリチュアル、ブルース、ラグタイムの要素を含み、根底的には西アフリカ、西サヘル、ニューイング
ランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある
アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカの移民
とその子孫の民族音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによって
ジャズとしての進化を遂げたといわれている
ニューオリンズが発祥の地とされており、現在でもその語源ははっきりしない
20世紀に入るとコルネット奏者のバディ・ボールデンがニューオリンズで人気を博し、今日では" 初代
ジャズ王 "と呼ばれているが、バディは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない
1917年ニューオリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが
ジャズでは初の商業用のレコードになる
" Dixie Jazz Band One Step "と" Livery Stanble Blues "の2曲入りシングルをビクタートーキングマシン
から発表している
初期のジャズは、マーチング・バンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けておりブラス
( 金管楽器 )・リード( 木管楽器 )・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響にもとづく
ものといえる
当初は独学でジャズを創作していったのも少なくなかったが、ジャズと音楽理論が融合するようになって
いったのは、ジャズが黒人社会に広く普及し、古典的なヨーロッパの音楽理論を取得したアフリカ系黒人
ミュージシャンがジャズに反映されていく時点からである
アメリカ禁酒法時代に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードやラジオの普及
によって、ダンス・ミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾身一体となっていた
1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとしてアメリカ国内の大都市に急速に広まった
第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が" ジャズ・エイジ "と呼ばれるのはこのためである
1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後にエドワーズ8世も少年時代にレコードを収集するなど
巾広い層に受け入れられた
1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際立たせる手法のひとつと
して小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンド・スタイルによるスウィング・ジャズが確立されるよう
になり人気を博す
この背景には、人種的障害で隔てられた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を
果たしたクレオールの存在があった
スウィング・ジャズはアレンジャーとバンド・リーダーの立場がより重要視されるようになり、特に
代表的なバンド・リーダーのひとりであるルイ・アームストロングの存在は、ジャズとヴォーカルとの
融合という側面において重要な役割を果たした
一方で保守層やファシズム政権などでは" 黒人音楽 "であり" 軽佻浮薄 "な" 非音楽 "であるとしてジャズを
排斥する動きも起こった
アドルフ・ヒトラーのナチ党に支配されたナチス・ドイツ時代には、反ジャズが政府の公式な見解となり
シュレーゲ・ムジークと呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、さまざまな
条例が作られた
しかし当局によるジャズの定義が曖昧であったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は盛んに
行なわれていた
また、宣伝用となったヨーゼフ・ゲッペルスはすでに大衆音楽として普及していた
ジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた
その一方で、ソロを際立たせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる
方向性を求めるミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップなどの新たなスタイルが模索
されるようになる
1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋に
かけてアメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか
残されていない
ビバップ創始者であるチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーら多くは録音を残し、1950年代には
クール・ジャズ、ウエスト・コースト・ジャズ・カルテット名義の" たそがれヴェニス "として発表
サウンド・トラックを丸ごとジャズに委ねたのは、伝記映画を除けば初のことであった
以後、フランスで" シネ・ジャズ "と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイビスが『 死刑台のエレ
ベーター 』に、セロニアス・モンクが『 危険な関係 』に、アート・ブレイキー&ジャ
ズ・メッセンジャーズが『 殺られる 』に、ケニー・ドーハムが『 彼奴を殺せ 』に参加、1958年には
アメリカ映画『 私は死にたくない 』にジェリー・マンガンやアート・ファーマーなどが参加し、以後
アメリカでもジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった
1950年代末期には、マイルス・デイビスの" マイルストーン " " カインド・オブ・ブルー "といった作品で
モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す一方、オーネット・コールマンや
アルバート・アイラー、サン・ラらはより前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると
オーネットのアルバム名から" フリー・ジャズ "という言葉が広まっていった
また、ジャズ・ヴォーカリストではビリー・ホリディ、サラ・ボーン、カーメン・マクレエ、エラ・
フィッツジェラルド、ニーナ・シモン、アニタ・オディらも活躍した
白人歌手のヘレン・メリル、ウテ・レンパーらも人気を集めた
1960年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる
スタン・ゲッツは" ジャズ・サンバ "をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み、翌年には
ボサノヴァの重要人物との共演盤" ゲッツ/ジルベルト "を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・イヤー
を受賞、1965年には" リカード・ボサノヴァ "がジャズ曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバー
として認知されるまでになる
カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイやホレス・シルバー、ナット・アダレイ、ラムゼイ・
ルイスらを中心としたソウル・ジャズ( ファンキー・ジャズ )も50年代後半から60年代に人気となる
1960年代までのジャズは、一部の楽器( エレクトリック・ギター、ハモンド・オルガンなど )を除けば
アコースティック楽器が主体だったが、1960年代末期マイルス・デイビスはより多くのエレクトリック
楽器を導入し、" ビッチェズ・ブリュー "を大ヒットさせる…同作に参加した多くのミュージシャンも
独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した
1970年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロス・オーバーと呼ばれるスタイルに変容していく
この時期に大ヒットしたのがデオタードの" ツアラトゥストラはかく語りき "である
さらには70年代半ばには、フュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく
フュージョンではリー・リトナー、ラリー・カールトン、アルメディオらがFMラジオで盛んにオン・
エアされた
スタッフ、クルセイダース、スパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、チャック・マンジョーネ、
クローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した
だがフュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストや
ジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から拒否反応を受けた
これは商業主義が芸術成果といった普遍的な問題をはらんでいた
1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのではなく多様化が進んだ
フュージョンの後継ともいえるスムース・ジャズがそのひとつである
また、一人の演奏家がさまざまなステイルでの演奏を行うことも多く、ときには1回の演奏会でさまざま
なスタイルでの演奏を行うこともある
ブラッド・メルドーはザ・バッド・プラスとともにロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロック
ミュージシャンによるジャズ・ヴァージョンの演奏を行ったりしている
前衛的なジャズも伝統的なジャズも継続されている
また、ハリー・ユニック・ジュニアなどの歌手はポップスにジャズの要素を加えただけで" ジャズ・
ミュージシャン "と呼ばれたり、ダイアナ・クラール、ノラ・ジョーンズ、カサンドラ・ウィルソン
カート・エリング、ジャイミー・カラムなど伝統的なジャズとポップスやロック形式の音楽を組み
合わせて人気を博したミュージシャンも近年登場している
フュージョンは1970年代に人気のピークを迎えたが、電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する
動きは2000年代に入っても続いている
この流れはパット・メセニー、ジョン・アバークロンビー、ジョン・スコフィールド、ロバート・
グラスパー・エクスペリエンスなどに受け継がれている