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Ultimate Music Album - 極 -


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QUEEN - クィーン -

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1991年にリード・ヴォーカルのフレディ・マーキュリーが死去してからも、残されたメンバーによる

クィーン名義での活動は継続的に続いており、ブライアン・メイロジャー・テイラーの2人が、2005年

から2009年までポール・ロジャースと組んでクィーン+ポール・ロジャースとして活動を行った

その後はアダム・ランバードを迎えたクィーン+アダム・ランバードとしての編成での活動も行っている

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■■ サウンドの特徴 ■■
エレクトリック・ギターをダビングすることによって作られる" ギター・オーケストレーション "と

マーキュリー、メイ、テイラーの3人のメンバーの声のパートを組み合わせることによって作られる

重厚な" コーラス "が、特に初期に目立ったサウンド上の特徴といわれている

そのギター・オーケストレーションを生み出す源、メイのハンド・メイド・ギター" レッド・スペシャル "

は、自宅の暖炉にマホガニーを素材にし父親と作ったハンド・メイドのギターであり当時ではまだ

珍しかった位相で音を変えるフェイズ・スイッチ、サスティーン効果を持続させるボタンなど、さすが

天体物理学博士号を持っていると思えるものであった

また、6ペンスコインをピックの代わりに使用していたのも音に影響を与えていたといえる

フィードバック奏法をやりやすくするための空洞なども、独自のサウンド作りに貢献している

シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを

明示するため、初期のレコードには" ノー・シンセサイザー "というクレジットがなされている

クィーンのコーラスの録音方法については、最上パートはテイラーが担当することが多く、特にオペラ風

コーラスに際しては当時のエンジニアラ制作関係者の証言で、マルチ・トラック・テープが摺り減り

テープのベース部分が透けるほど繰り返しコーラス部分のダビングを行った経緯が細かく説明された

 

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■■ レコード・デビューまで ■■
ブライアン・メイロジャー・テイラーの在籍していたバンド、スマイルがクィーンの母体となった

1969年9月にシングル" アース "をリリース、これはまったく成功せずヴォーカル兼ベースのティム・

スタッフェルが脱退、その後任として加入したのがスタッフェルの同級生でバンドとも知り合いだった

フレディ・マーキュリーであった

1970年7月12日のライヴよりクィーンと名乗り始め、何人かのベーシストが加入と脱退を繰り返し、

最終的にオーディションで加入したのが、ジョン・ディーコンで1972年2月のことだった

クィーンの英公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている

 

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■■ 初  期 ■■

ファースト・アルバム" 戦慄の王女 "リリース当時、母国イギリスでは" ロックなのに曲構成が複雑で

サウンドに小細工が多い " " ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエスの亜流 "などとメディア

から酷評され、遅れてきたグラム・ロック・バンドとみられることもあった

また、彼らはこのアルバムから発売までに2年近くももたつき結果、後にマーキュリーがインタビューで

述べていたように、レコード契約から1年以上待機させられたため" 発売時はあらゆる意味で、時代遅れに

なっていた "という

 

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■■ 黄金期 ■■
1974年3月、2ndアルバム" クィーンⅡ "をリリース、イギリスのメディアの評価は一向に変わらなかった

がシングル曲" 輝ける7つの海 "のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった

このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる

1974年、3rdアルバム" シアー・ハート・アタック "からの先行シングル" キラー・クィーン "が全英2位の

ヒットとなり、また同年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカ・

ツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアー途中でクィーンは降板を余儀なくされる

1975年2月にカンサス、スティクスらの前座として再びアメリカ・ツアーを開始、ツアーは各地で

大盛況を得て" キラー・クィーン "は全米12位まで上昇する

しかしツアーの途中、今度はマーキュリーが喉を痛めてしまいマーキュリーはしばらく安静状態を強い

られたが、その後回復してツアーを無事終了させる

10月には、4thアルバム" オペラ座の夜 "からの先行シングル" ボヘミアン・ラプソディ "が全英9週連続

1位の大ヒットを記録、当時" 6分を超える長い曲などラジオで流してくれない "とレコード会社側は曲の

カットを指示したが、マーキュリーとテイラーは知り合いのラジオDJであるケニー・エヴェレットに

意見を求めた、エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流したという

" ボヘミアン・ラプソディ "はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、

マーキュリーは同曲の世界的ヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞、その結果、4枚目の

アルバム" オペラ座の夜 "は初の全英1位を獲得、アルバムはクィーンに批判的だったメディアからも

非常に高い評価を得た

 

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1976年、軌道に乗ったクィーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを敢行し、1977年

自身のレコーディング・スタジオで創作活動に専念し、初のセルフ・プロデュースである5thアルバム

" 華麗なるレース "を発表、これまで以上に分厚いサウンドになっているものの、基本的には" オペラ座

夜 "の路線をさらに推し進めた作風となっている

全英2位、全米13位のヒットとなった先行シングル" 愛にすべてを "や" 懐かしのラヴァー・ボーイ "の

ほかに、歌詞の一部を日本語で歌った" 手をとりあって "が収録され、アルバムはイギリスや日本で1位を

獲得するヒット作となった

再びセルフ・プロデュースで臨んだ6thアルバム" 世界に捧ぐ "では、パンク・ロックが流行しつつ

あった当時の音楽シーンの流れを意識し、サウンド的にはシンプルな方向へと向かいトレード・マークで

あったコーラス・パートのまったくない曲も収録された

アルバムは日本とイギリスで4位止まりだったが、" 伝説のチャンピオン " " ウィ・ウィル・ロック・ユー "

がヒットしたアメリカでは、これまでの最高位である3位を記録、またヨーロッパ中で唯一クィーンが

苦手としていたフランスで" ウィ・ウィル・ロック・ユー "が12週連続1位となり、13週目には" 伝説の

チャンピオン "が1位となった

1978年にはヨーロッパ9カ国でツアーを開催、6年目にして初のフランスでのコンサートも成功を収めた

 

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7枚目のアルバム" ジャズ "では再びロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンド

楽曲を展開している

" バイシクル・レース "はプロモーション用に制作された全裸の女性が自転車レースをするというポスター

とプロモーション・ビデオでは物議をかもした

" バイシクル・レース "の影響もあり、このアルバム発売直後にはマスコミは一斉にクィーンを批判したが

アルバムは全英2の大ヒット、このアルバム発売と同年クィーンはカナダを皮切りに北米ツアーを開催、

マーキュリーはステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した

翌1979年にはヨーロッパ・ツアーを開催、東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに

入っていたことで話題を呼んだ

また、マーキュリーがバレエ好きであったことから国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティ

特別公演に出演、マーキュリー自身もバレエを踊った

カンボジア救済チャリティ・コンサートにも出演し、初日に単独のコンサートを開き、さらには

マーキュリー作の" 愛という名の欲望 "が全米1位と、アメリカを始め全世界で好成績を収め、ライヴ・

アルバム" ライヴ・キラーズ "で1970年代を締め括る

 

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■■ 第2次黄金期 ■■
エルヴィス・プレスリー風の" 愛という名の欲望 "の大ヒットに続いて、1980年のアルバム" ザ・ゲーム "

も全英・全米とも1位を記録、またアルバムからシングル・カットされ全米1位を記録したディーコン作の

" 地獄への道づれ "は、アメリカでのファンク・ソウルなどブラック・ミュージックのチャートでも上位に

ランク・インし、アメリカでのクィーン最大のヒット曲となった

また、そのほかのサウンド上の特色として、このアルバムからシンセサイザーの導入されていることが

挙げられる

これは" ザ・ゲーム "製作途中で同名映画のサウンド・トラック" フラッシュ・ゴートン "の録音が

挟まった形となったことが大きな要因となっている

1981年、初の南米進出となるブエノスアイレスでのライヴを始め、サンパウロではたった2日で観客

動員数の記録を更新、南米でのツアーを終えたメンバーはスイスでレコーディング中に親交を深めて

いたデヴィッド・ボウイとの共作による" アンダー・プレッシャー "はイギリスやアルゼンチンで1位を

獲得するなど世界的にヒットし、さらにこの年発表された" グレイテスト・ヒッツ "は、イギリス史上

もっとも売れたアルバムである

翌年発表されたアルバム" ホット・スペース "は、" 地獄の道づれ "などがアメリカで成功したことから

マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンス・ミュージックの要素をアルバム全編にわたって

突き詰めた内容だったが、この方向転換は、ファンや評論家から強い反発を受けた

1983年にはバンドを小休止し、各自ソロ活動に専念した

 

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その結果、1984年のアルバム" ザ・ワークス "では軌道修正を図り、ファンが待ち望んでいたような

楽曲が集まった保守的ともいえる作品に仕上がった

このころになるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の" ラディオ・ガ・ガ "が

19ヵ国1位と大ヒットし、またディーコンの" 自由への旅立ち "が南米などで" 自由へのシンボルとして

の曲 "と位置づけられるなど、ヨーロッパ圏だけでなく南アメリカやアフリカといった地域でも人気を

集めるようになっていた

しかしこのころから、上述にもあるように各メンバーのソロ活動も盛んとなり、加えてメンバー間の仲も

険悪になっていく…" 1985年7月13日のライヴ・エイドの出演がなければ、そのまま本当に解散していた

かもしれない "と後にメンバーも振り返っている

1985年に行われた20世紀最大のチャリティー・コンサート、ライヴ・エイドでは、出演アーティスト中

最多の6曲を披露、そのパフォーマンスの質の高さにロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・

ジョンがバック・ステージで悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされている

クィーンの圧倒的なライヴは、スタジアムの観客やライヴが中継された国々のファンからも絶大な反響が

あり、世界各国でクィーンのアルバムがチャートを急上昇した

この思わぬ反響を受けてクィーンは新曲のレコーディングを開始し、同年11月にシングル" ワン・

ヴィジョン "を発表、メディアはこぞって" ライヴ・エイドの便乗商売 "とこれを批判したが、イギリス

ではチャート7位にランク・インした

1986年、アルバム" カインド・オブ・マジック "を発表し、イギリスを中心に世界中で大ヒットを記録

また、アルバム発表後のマジック・ツアーでは、ヨーロッパ諸国の全26公演で200万人以上の観客を

動員、中でもウェンブリー・スタジアムで行われたコンサートは2日間で15万人の観客動員を記録し

8月9日にはネブワース・パークで観客30万人を記録、ツアーは大成功を収めた

しかし、マーキュリーの容体の悪化に伴い、クィーンの4人が揃ってツアーを行ったのは、これが

最後となる

 

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■■ 後期・フレディ・マーキュリーの死 ■■
書籍『 フレディ・マーキュリー 華やかな孤独 』によれば、ライヴ後のパーティーレズビアン・ショー

や、約10人のダンサーによるストリップ・ショーが行われたこともあったという

フレディの誕生パーティーでは総額20万ポンドが浪費されたという

マジック・ツアーの成功以来、メンバーは各自ソロ活動を行っていたが、1988年1月にはスタジオに

再結集しアルバム制作を開始、1985年5月に約2年ぶりのアルバム" ザ・ミラクル "を発表、先行シングル

" アイ・ウォント・イット・オール "ともども、本国イギリスやヨーロッパ各国でビッグ・ヒット

記録し、人気が健在であることを証明したが、アルバムに伴うツアーについてはマーキュリーはあっさり

否定、一方以前からマーキュリーには" エイズに感染しているのではないか "との噂が飛び交っていたが

当時本人はこれを否定し続けてきた…実際にはマーキュリーがエイズに感染していることは1987年ごろに

判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた

1991年初頭に、前作からわずか1年あまりで14thアルバム" イニュエンドウ "をリリース、サウンド

にはやや初期に戻ったが、ブリティッシュ系ロック・バンドをさらに自覚したようなサウンドとなった

タイトル・ナンバーではスティーヴ・ハウによるアコースティック・ギター・ソロがフィーチャーされた

メンバー意外のミュージシャンがクィーンのスタジオ・アルバムでギターを演奏したのはこれが最初で

最後である

アルバム" イニュエンドウ "からシングル・カットされた" イニュエンドウ "は全英1位、" ショウ・

マスト・ゴー・オン "は全仏2位とシングル面でも大健闘したが、このころすでにマーキュリーの体は

病魔に侵されていた

" 輝ける日々 "は、マーキュリー生前最後のミュージック・ビデオ出演になった

 

1991年11月23日、マーキュリー自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表

" 私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました しかし私の身の回りの人々の
プライバシーを守るためこの事実を隠しておくことが適当だと考えておりました しかし今、世界中の
友人たちとファンの皆様に真実をお伝えするときがきました これからはこの恐ろしい病気に対して私と
私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦ってください "

そして翌24日、フレディ・マーキュリーHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモ

シモンズ肺炎により45歳という若さで死去、亡くなった1991年は奇しくもクィーン結成20年目だった

マーキュリーが亡くなったことによって世界中に衝撃が走り、葬儀会場は世界中から駆けつけたファン

の花束で埋め尽くされた

マーキュリーの死の直後、クィーンのアルバムが世界中でチャート・インし、イギリスでは" ボヘミアン

ラプソディ "がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てた

また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された

 

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■■ フレディ・マーキュリー死後の活動 ■■
クィーンは正式に解散したことはなく、テイラーとメイがそれぞれソロ活動を行ったり、残された

メンバーでクィーン名義でたびたび活動している

ソロ活動においては、メイはクィーン時代の延長線上にあたる音楽を、一方テイラーはクィーンとは

異なったアプローチで、それぞれ音楽活動を断続的に続けている

ディーコンは、あまり目立った活動は行っておらず、音楽業界から完全に引退し家族とともに暮らして

いるとのこと

 

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