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Ultimate Music Album - 極 -


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REO Speedwagon - REOスピードワゴン -

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ことの起こりは1967年だった

イリノイ大学の寮生でルームメイト同士であった2人の青年、ニール・ドーティとアラン・グラッツァー

によってロックン・ロール・バンドが結成されたのである

ニールはそのころ受けた『 アメリカ輸送史 』という大学の講義に出てきた1910年の消防車の名前に

強く魅かれていた

このトラックの設計者こそが後のオールズモービルの創業者であったRonson E.Oldsで、この人物の

頭文字をとってバンドにつけられた名がREOスピードワゴンであった

このアメリカ中西部の片田舎で結成されたバンドが、後に名に恥じぬ力強さを持つ名グループへと成長

していくことには、まだ誰も気づいていなかった

2人はこのバンド完成させるために残りのメンバーを探し始めた

そして見つかったのがベースのグレッグ・フィルビン、そしてギターのゲイリー・リッチラスであった

ニールとアランは幼少のころからニールはピアノ、あらンはドラムに親しんでいて、こうしてオリジナル

メンバーが出揃ったREOスピードワゴンは、ローカルなクラブでドアーズやバーズのカヴァーを中心と

したライヴ活動を始めた

ギグを重ねるにつれ次第にオリジナル・ナンバーも増え、イリノイ近辺ではアマチュアとして高い評価を

受けるようになってきた

そんな彼らの評判を聴きつけたのがエピック・レコードであった

REOスピードワゴンはエピックと契約を結び、1971年に記念すべきファースト・アルバム" REO

Speedwagon "をリリースする

デビュー作からすでに彼らの持ち味であるワイルドでパワフルなロックン・ロールというスタイルは

出来上がっていたのだが、いかんせん荒削りで未完成な部分も多く、さしたる評価も受けずにこの

アルバムは終わってしまった

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1972年はREOにとって大きな転機となる出来事が待っていた

リード・ヴォーカル、ケヴィン・クローニンの加入である

天賦のメロディ・センスと甘い声を持つケヴィンを得てREOはセカンド・アルバムを発表する

" R.E.O./Two "と名付けられたこのアルバムはケヴィンのカラーが良く反映されて、非常によく練られた

ポップな作品であった

アルバム発売と同時に行なわれた大規模なツアーの成果もあって、このアルバムは非常に高い評価を

受けた

上り調子だったREOの、しかし、前途は多難だった

ケヴィンがセカンド発表後に音楽性の相違から脱退を表明したのである

彼の代わりに参加したマイク・マーフィーがいたころのREOスピードワゴンは、ハードでアーシーな

ロックをその身上とし、1973年の" ライディング・ザ・ストーム "、1974年の" ロスト イン・ドリーム "

1975年の" ディス・タイム・ウィー・ミーン・イット "を発表するがシングル・ヒットに恵まれず

バンドは危機に陥る

ちょうどこのころ、バンドを去っていたケヴィンはギターとピアノを中心としたソフトなロックで

イーグルスリンダ・ロンシュタットフランク・ザッパなどのオープニング・アクトとしてそこそこの

成功を収めていた

REOからはマイク・マーフィーが離れて、再びシンガーがいない状態だった

バンドの結論としては、再びケヴィンに参加してもらおうということだった

電話の向こうでケヴィンはたったひとこと「 待ちかねたよ 」と言っただけで、次の日にはもう飛行機の

中にいた

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こうして再びケヴィンを迎え、1976年に通算6作目となる" R.E.O. "をリリースしたバンドは年間300本に

およぶ全米ツアーを開始、この6枚目のアルバムは実際にはセールスに結びつかなかったものの

メンバーにとってはターニング・ポイントとなったアルバムで、その聴きやすく、センスのよい

サウンドは高く評価された

このアルバムにテイクされている" キープ・プッシン "はライヴでも演奏されている彼らにとって大切な

曲になっている

1977年はREOにとって第2の転機となった

前年にツアーの様子を収録したライヴ・アルバム、" ライヴ~嵐の中へ "を発表、これがクループにとって

待望の初プラチナ・アルバムになる

マネージメントも離れ、初のセルフ・プロデュース・アルバムであったこの作品が大成功を収めたことは

グループにとっての大いなる自信となっていった

だが、苛酷なツアーはその傷痕を残し、ベーシストのグレッグ・フィルビンが脱退、代わりに同郷の

ブルース・ホールが加入するこうして黄金メンバーが揃ったREOは、通算8作目の" ツナ・フィッシュ "

を1978年に発表、このアルバムは彼らをスーパー・グループにするきっかけとなった作品だった

セールス的にもプラチナ・アルバムを獲得、" ロール・ウィズ・ザ・チェンジズ " " 出発の時 "という2曲

のヒットも生むことになる

親しみやすいサウンドに人気が集中し、この年のライヴ・ツアーで観客動員数ナンバー・ワンを記録

名実ともにNo.1ライヴ・バンドになるとともに、アメリカの隅々まで彼らの人気とパワーを伝えて

いったのである

その後、1979年に" ツナ・フィッシュ "の延長上にある" ナイン・ライヴズ "を挟んで、1980年11月に

歴史に残る名作" 禁じられた夜 "を発表する

" 僕はいつだって新入りだったんだ "、そのころを思い起こしてケヴィンは語る

" バンドに出たり入ったりしてたからね だから、僕がいい曲を書いてみんなに聴かせると、' なんか

REOっぽくないな 'といって却下されちゃうんだよ ずっと我慢してたんだけど、とうとう' 僕だって

REOの1人なんだから、これはREOっぽいんだ 'ということにしたんだ バンドを乗っとたとか、そういう

ことじゃなく自分を主張しただけだ "

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ケヴィンが自分を主張し始めたことは、REOにとっては大きな転機となった

バンドは外部のプロデューサーの手を離れ、自分たちのサウンドを作り始めたのだった

そして、REOマジックの総決算としてリリースされたこの作品はあっという間に爆発的な売れ行きをみせ

1981年2月から8月までの実に6ヶ月もの間、全米チャートのトップを飾ることになる

アルバムからは4曲のシングル・ヒットが生まれ、なかでも" キープ・オン・ラヴィン・ユー "は彼らに

とって初のナンバー・ワン・シングル、初のミリオン・セラーとなった

ちなみにこの4枚のシングルがトップ40に入っていた期間は、実に延べ48週間にもなるのである

セールス的にも大成功ではあったが、このアルバムはREOのスタイルを決定づけた1枚であった、という

部分での意義が大きかった

そして同時にケヴィンの稀代のソングライターとしての才能もクローズ・アップされた

" 自分にとって大切なことに接する時期に差しかかっていたんだ あの曲を書いていたころはナンバー・

ワンになるなんて考えもしなかったから、大勢の人に聴かれて気恥ずかしかったな "

続く1年半の間にこの" 禁じられた夜 "は全世界で1,800万枚を売り上げ、REOスピードワゴンは一躍

世界のトップ・バンドの仲間入りを果たしたのである

ニューヨーク・タイムズの言葉を借りればREOは" まさに驚異的ロック界の奇跡 "であった

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だが、どんなロック・キッズでも一度は夢見るこのサクセス・ストーリーは、皮肉にもREOスピード

ワゴンに次の目標を見失わせる結果となってしまった

なかでもその立役者であったケヴィン・クローニンは精神的に不安定になっていた

" 僕らが無名だったころはまだよかったよ 誰も僕たちに構わず好きなことをやっていられたからね でも

一度有名になってしまうと、世界中の人が僕らにああしろ、こうしろって指図したがるんだよ そういう

もんじゃないだろ音楽って、心から生まれるもんだろ "

" 禁じられた夜 "のプレッシャーと戦う一方で、以前にも増して精力的なツアーを行いながら、次第に

アルバムとアルバムの間隔は長くなっていくが、1982年の" グッド・トラブル "、1984年の" ホイールズ

アー・ターニン "、1987年の" 人生はロックン・ロール "と、完全に定着したREOスピードワゴンの個性を

フルに生かした秀作を発表していく

" ホイールズ・アー・ターニン "からは" 涙のフィーリング "といった全米ナンバー・ワン・ヒットも

生まれ、REOはトップ40の常連となり、まさに80年代のアメリカを代表するトップ・グループの

ひとつとなったのである

1988年リリースされた" ザ・ヒッツ1973~1988 "はREOの力強さ、優しさのすべてを描き尽くした

文字通りのグレイテスト・ヒット集であった

だが、こうしてトップ・グループとしての栄光を味わったREOは、この後、何かを失ったかのように

みえた

そして必然的なことだったのだろうか、オリジナル・メンバーで中心人物でもあったゲイリー・リッチラス

とアラン・グラッツァーが揃ってバンドを離れていってしまった

残された3人は1990年、新たに活動を開始、ジェシー・ハームズ(Key)、デイヴ・アモト(G)ブライ

アン・ヒット(Ds)の3人を加え6人編成の、新REOスピードワゴンが誕生したのである

彼らが作ったアルバムはREOとしては実に3年半ぶりで" ジ・アース・ア・スモール・マン・ヒズ・ドッグ

アンド・ア・チキン "と名付けられた

新しいメンバーを加えたこの作品は今までになく新鮮で、そこには今まで以上に生き生きとしたREOの

姿があり、昔のように歌を楽しみ、プレイを楽しむREOの姿があった

 

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