I made a history of Prodressive Rock - Pink Floyd -
∈ 1964年~1967年 ∋
リージェント・ストリート建築工芸学校で建築学を学んでいたロジャー・ウォーターズ、リチャード・
ライト、ニック・メイスンによって、64年暮れシグマ6というグループが結成される
シグマ6はその後、アブダブス、アーキテクチュアル・アブダブス、メガデスなどと名前を変え
シド・バレットが加わった65年暮れには、ピンク・フロイドと名乗るようになる
ちなみにその名は、ブルース・マンのピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルから取ったもので
シドのアイディアだった
ロンドンのUFOクラブやマーキー・クラブでスライドやフィルムを使用したサイケデリックなライヴ・
パフォーマンスを披露し、アンダーグラウンド・シーンのヒーローとなったピンク・フロイドは、67年
3月に" アーノルド・レーン "でレコード・デビュー、しかしながらメロディ・メーカー誌で" 不潔な
汚らわしい、不埒な、不道徳きわまる下品な歌 "と酷評されたほか、BBCで放送禁止になるなど、散々たる
結果に終わった
同年7月には、2枚目のシングル" シー・エミリー・プレイ "を発表、これはヒット・チャート8位まで
上がるスマッシュ・ヒットとなり、続いて発表されたアルバム" 夜明けの口笛吹き "も評判を呼んだ
" このアルバムはシド・バレット以外の3人は誰でもよかった "( ロジャー・ウォーターズ )というほど
シドのカラーが色濃く表れた作品であった
しかし、その一方でポップ・スターとして相次ぐテレビ出演などを余儀なくされたこともあって、シドは
ノイローゼにかかり回復しないために、68年にはピンク・フロイドを脱退することになってしまう
∈ 1968年~1969年 ∋
シド・バレットの後釜にデヴィッド・ギルモアを加えた新生ピンク・フロイドは" 本当にシド抜きで
やっていけるのか分からなかった "といいながらも68年6月に発表されたセカンド・アルバム" 神秘 "が
良い評価を受け、将来に期待を抱かせた
" イギリスNo.1のサイケデリック・グループによるエキサイティングな冒険(メロディ・メーカー誌)"
その後、ピンク・フロイドに映画音楽、テレビのドキュメンタリー音楽、バレエ音楽などの依頼が
相次いで舞い込んできたこともあってピンク・フロイドはそれにも増して映画との関わりの深い
グループとして認知されていく
『 砂丘 』や『 モア 』といった映画でのピンク・フロイドの音楽は、よく知られているが『 2001年
宇宙の旅 』でもピンク・フロイドに音楽の依頼があった
69年11月に発表されたライヴ・レコーディングとメンバー4人の実験的なアプローチを1枚にまとめた
ダブル・アルバム" ウマグマ "も、ピンク・フロイドの凄さをみせつけたものだった
∈ 1970年~1972年 ∋
70年10月に発表された" 原子心母 "は、ロックとシンフォニーを融合させたロック史に残るエポック・
メイキングなアルバムであった
" " 原子心母 "はロック・ミュージックにとってビートルズの" サージェント・ペパーズ… "と同じ
くらい重要な作品である(キャッシュ・ボックス誌) "という意見に代表されるように、最大級の
賛辞が浴びせられたのである
ライヴでも15人の合唱隊と10人のブラス・セクションを加え、スケールの大きさで観客のド肝をぬいた
ものだ
71年10月には、大作" エコーズ "をフィーチャーした" おせっかい "、72年8月には映画のサントラでも
ある" 雲の影 "を発表したピンク・フロイドは、充分に世界的なロック・バンドとして認知される存在に
なっていった
71年8月、72年3月と僅か半年足らずの期間に2度の来日を果たしたのも、今では考えられない出来事だ
∈ 1973年~1974年 ∋
1988年当時、発表から15年以上も経過した時点でもビルボード誌のヒット・チャートにランク・イン
していたギネス・ブックものの怪物アルバム" 狂気 "は、73年3月に発表されアメリカでピンク・フロイド
にとっての初のナンバー・ワンの座を獲得したのを始め、世界中で驚異的な大ヒットを記録した
トータルなコンセプト・アルバムでありながら、それぞれの曲が独立したポップ・ナンバーとしても
聴ける親しみやすさを持っているという、いうなればロック/ポップのレコードとして日の打ちどころの
ないアルバムであったわけだが、、これほどまでに長い間売れ続けるなどとは、当のピンク・フロイド
自身さえまったく予想できなかったことであろう
∈ 1975年~1978年 ∋
" 狂気 "の大成功によってピンク・フロイドは" いったい次に何をしたらいいのか大いに悩んだ "という
後にロジャー・ウォーターズをして" ピンク・フロイドはあのとき解散するべきだったのかもしれない "
といわせたのも当然といえば当然か
悩んだ末に生み出された" 炎~あなたがここにいてほしい "は、75年9月に発表された
" 狂気 "とはまったく異質のアプローチで、生々しい人間味あふれるピンク・フロイドの姿をみせつけた
このアルバムは、今ではもっともピンク・フロイドらしい作品のひとつとして広く知られているが
発売当初は" 狂気 "とのあまりにも大きなギャップ故に、メディアでの評判は決して良いものではなかった
続いて77年1月には" アニマルズ "が発表された
ジャケット撮影用にロンドンのバタシー発電所上空に飛ばされた40フィートもの巨大なピンクの豚も
大いに話題を呼んだものだが、ヘヴィで重苦しいアルバムの中身も、あの時代を象徴するリアリティに
満ちたものだった
∈ 1979年~1982年 ∋
" 狂気 "とともにピンク・フロイドの最高傑作として並び称される" ザ・ウォール "が発表されたのは
80年代を目前に控えた79年11月末のことであった
シングル" アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール パート2 "の大ヒットとともに、2枚組のアルバムも
全世界で1,200万枚以上売る驚異的なセールスを記録、ピンク・フロイド健在を否というほどみせつけた
総製作費6億円といわれステージの高さ31フィート、幅160フィートという巨大な壁を作り上げてしまう
前代未聞のコンサートをロサンゼルス、ニューヨークほかで行い、また総製作費34億円といわれる映画
『 ザ・ウォール (82年公開)』まで作り上げてしまった
もはやロック/ポップ・グループの域をあっさりと超越した壮大なプロジェクトであったのである
まさしく、ピンク・フロイドならではの凄さを堂々とみせつけたプロジェクトといえよう
∈ 1983年~1985年 ∋
" ザ・ウォール "のプロジェクトの最終章といわれ、また" ロジャー・ウォーターズの私的なアルバム "
( デヴィッド・ギルモア )といわれた" ファイナル・カット "が83年3月に発表される
ピンク・フロイドにしては充分なセールスを記録したとはいえないこのアルバムは、見る角度によって
は限りなくスリリングであり、当時のピンク・フロイドを如実に表している
結果的にこのアルバムを最後に、ピンク・フロイドは実質的な解散状態となり、メンバーはそれぞれ
別々の道を歩み始める
∈ 1986年~1988年 ∋
一度は実質的にバラバラとなったピンク・フロイドだが86年後半、デヴィッド・ギルモアとニック・
メイスンによってピンク・フロイドはニュー・アルバムのレコーディングを開始する
ロジャー・ウォーターズは" もうピンク・フロイドは終わった "として参加せず、ピンク・フロイドの
名の使用権をめぐって両者は争うが、結局ロジャー抜きのピンク・フロイドの活動が認められる
このニュー・ピンク・フロイドには" ザ・ウォール "以降バンドを離れていたリチャード・ライトも参加
ロジャー抜きのピンク・フロイドが本格的に始動する
新生ピンク・フロイドのアルバム" 鬱 "は87年9月に発表された
元ヒプノシスのストーム・ソーガソンによるいかにもピンク・フロイドらしいジャケット、ギルモアを
中心にしたサウンド重視の作品、誰もがかつてのピンク・フロイドが戻ってきたと感じたに違いない
そして、アルバムに合わせてスタートした10年ぶりの本格的なツアーは、アメリカ、カナダ、オースト
ラリア、日本、ヨーロッパ、そして再びアメリカと10ヶ月近く続いた
そのスケールはピンク・フロイドの長い歴史の中でも最大であり、改めてピンク・フロイドの名前の
凄さをみせつけた
∈ 1989年~終焉 ∋
1992年にピンク・フロイドは再始動し、1994年に" 対 "を発表
収録曲" 孤立 "はグラミー賞ベスト・ロック・インストゥルメンタル部門を受賞、そして再び大規模な
コンサート・ツアーに出る…全112公演で、ツアーの総費用は2億ドルにも及ぶものだった
このツアーでは" 狂気 "組曲を1975年以来19年ぶりに演奏し、このライヴの模様を収めた" p.u.l.s.e "も
リリースしたが再び沈黙に入る
2001年にはベスト・アルバム" エコーズ~啓示 "をリリース、ロジャーを含めた4人で選曲が行われ
ピンク・フロイドにとって初といってもいいベスト盤となった
2006年7月7日、かつてのリーダーであったシド・バレットが死去、バレットの死去に際して再結成の
噂も聞かれたが実現はしなかった
2008年9月、リチャード・ライトが死去
2014年7月、スタジオ録音としては20年ぶりとなるアルバム" 永遠 / TOWA "を10月にリリースすると
オフィシャル・サイトで公表、ギルモアは" これがピンク・フロイドのラスト・アルバムになる "と
明言する
ギルモアはロジャーを含む再結成を改めて否定し" ピンク・フロイドは自然消滅した リチャード・ライト
なしではピンク・フロイドの看板で演奏することはない "とバンドの終結を示唆した