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Ultimate Music Album - 極 -


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Masayoshi Takanaka - 高中正義 -

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1971年のデビュー以来、日本のロック界、フュージョン界を
代表するギタリストの一人である

 

中国人( 南京市出身 )の父親と日本人の母親の間に生まれる

父は第二次世界大戦後に中国から来日して高中姓の母と結婚し、小学校4年制のときに日本へ帰化して

劉正義から高中正義と名乗るようになったという

武蔵工業大学附属高等学校在学中の16歳のとき、府中の米軍基地にあるAIRMAN'S Clubでグランド・

ファンク・レイルロードやジミ・ヘンドリックスコピーバンドで演奏した記録が残っている

高校3年生のとき、エイプリール・フールのコンサート中に酔っ払ったメンバーの" 誰かギターを代わり

に弾いてくれ "という呼びかけに応じて、客席から学生服のままステージに上り演奏したことがプロ

デビューのきっかけとなる

 

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柳田ヒログループの一員として、1971年7月日比谷野音で開催された岡林信康の" 狂い咲き "コンサート

でバッキングを務め、同年8月に成毛滋つのだ☆ひろストロベリー・パスのサポートとしてロック

イベント" 箱根アフロディーテ "に出演、1ヶ月後に正式メンバーに迎えられフライド・エッグと改称する

のだが、このプロ・デビュー時は本人の意に反してベースを担当させられていた

フライド・エッグ解散後、加藤和彦が結成したサディスティック・ミカ・バンドに参加し、ここからプロ

ギタリストとして活動していくようになる

同時期、スタジオ・ミュージシャンとしても活動し始め、各方面で頭角を現すようになる

1975年、サディスティク・ミカ・バンド解散後は、残ったメンバーの高橋幸宏後藤次利今井裕らと

サディスティックスを結成し、翌1976年には自身初のソロ・アルバム" SEYCHELLES "を発表し以降は

サディスティックスとソロ活動を併行していくようになる

ほかのメンバーもソロ活動と掛け持ちをし、いずれもソロ活動に比重をおくようになったため、サディス

ティックスは自然消滅するように1978年に解散していった

サディスティックス解散後はソロ・アーティストとして活動していき、毎年コンスタントに1~2枚の

ペースで発表していったソロ・アルバムは、自身のオリジナル曲を中心としたギター・インストゥル

メンタル曲で構成されたことにより、それまでのロックから当時盛り上がり始めていたフュージョン

フィールドに活動がカテゴライズされるようになる

リスナー層は、フュージョン黎明期の楽器を嗜むアマチュア・ミュージシャンといった限られた層だけ

でなく、夏や海を連想させる親しみやすいく曲調で当時のトロピカル・ブームも相まって、早くから

流行に敏感な若者層全般まで支持を広げていた

フュージョン・ブームが頂点を指した1979年、代表曲となる" BLUE LAGOON "が収録されたアルバム

" JOLLY JIVE "を発表し、さらにその直後には日本武道館井上陽水とのジョイント・コンサートを

行って話題となり、ここで人気が爆発した

 

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1981年、イタリアの画家ウル・デ・リコの絵本『 虹伝説 』から得たインスピレーションによって制作

したコンセプト・アルバム" 虹伝説 THE RAIBOW GOBLINS "を発表、同年第23回日本レコード大賞

企画賞を受賞したほか、アルバムとともにその世界観をステージに再現した大掛かりなライヴは反響を

起こす

1982年、アルバム" SAUDADE "が初のオリコン・アルバム・チャート第1位などを記録するなど、

フュージョン・ブームが収束していった後も人気は継続していった

1985年、レコード会社をキティ・レコードから東芝EMIに移籍して" TRAUMATIC 極東探偵団 "を発表

それまでのトロピカル・ミュージック路線から洋楽を意識したダンス・ミュージック路線にシフトして

いくようになり、フュージョン色は消えていくようになる

1980年代末は日本とアメリカのマイアミを行き来するようになり、現地で活動していたマイアミ・

サウンド・マシーンとコレボレーションした音楽制作をするようにもなった

1992年発表のアルバム" Fade to blue "からはダンス・ミュージックを抑えて、以前のようなギター・

インストゥルメンタルによるフュージョン色が濃い路線に回帰していく

2000年代に入り、個人レーベルのLagoon Recordsを設立してからは、それまで年1枚のペースで出して

いたオリジナル・アルバムの発表は鈍くなるも、それに替わって毎年のライヴDVDの制作と発表に力を

入れていくようになる

 

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❏❏ エペソード・逸話 ❏❏
演奏スタイルは、インプロヴィゼーションよりも楽曲そのもののまとまりを重視しており、ジャズや

フュージョンというよりも様式美を重んじるタイプのロックのそれに近い

また、ベンチャーズの影響を受けたのか、コンサートでモズライト・ギター( ベンチャーズ・モデル )

を使用し、" 十番街の殺人 "や" キャラバン "などをカバーしている

ライヴにおいてもいわゆるアドリブと呼ばれる部分も、初出の音源のものに準じているのが基本であり

長尺の曲の後半でスリリングな演出を仕掛けることが多い

当時ソロ・デビュー時は、自分でヴォーカルをとるつもりであったが" デモ・テープも録ってみたん

だけど、先天的に音痴みたいで "とのことから、ギターでメロディをとる現在のスタイルになったという

ヴォーカリストを迎えた曲も存在するが、基本的には自身のギターがメインとなっていて、これに

ついても" 上手いヴォーカルを入れればいいんだけど、そうすると自分がメインじゃなくなるから

嫌なの "と語っている

アルバムによってはラッパーを迎えたヒップ・ホップ風の楽曲や、アコースティック色の強いアルバム

など豊富なバリエーションがあるが、基本的には本人のギターがヴォーカルの代わりとしてメインの

位置にいるスタイルが下地となっている

 

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昔からジャンプスーツなどのド派手なファッションで有名、" とにかく派手にしてくれ "とオーダーメイド

洋服屋で作らせたという

また、1970年代から金髪や緑髪にもしていて、被り物もよく被っている

近年は、派手な衣装はあまり着なくなったが、サーフィン・ギターというサーフボードをくり抜いて

作ったギターをライヴなどでよく使っている

最近では、フェンダーのリゾネイター・ギターのトップに鉄道模型の路線を敷いたギターや、フェンダー

カスタムショップ製の" TAKANAKA STRATOCASTER "のプロトタイプに鉄道模型の情景素材やZゲージ

鉄道模型の線路を組み込み、自動往復させながら演奏可能なギターを演奏して、観客へのサービス

心は健在である

 

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