キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエスとともに
" プログレッシブ・ロック四天王 "と呼ばれた Emerson,Lake & Palmer
∈ 結成までの経緯 ∋
ザ・ナイスを率いていたキース・エマーソンは、ほかのメンバーに不満を抱くようになり、新しい
メンバーを模索し始めた
一方、1969年イギリスでキング・クリムゾンのアルバム" クリムゾン・キングの宮殿 "でデビュー、
このアルバムでベースとヴォーカルを担当したのがグレッグ・レイクだった
1969年暮れ、レイクはキング・クリムゾンのアメリカ公演中フィルモア・イーストでザ・ナイスと共演
する機会があり、このときエマーソンと意気投合した
このころレイクはエマーソンがジミ・ヘンドリックスの何れかとバンドを組みたいと考えていた
1970年の2月に意見交換し始め、お互いに現在のバンドを離脱し新しいバンドを結成する計画を進め
同年4月、当時アトミック・ルースターにいたカール・パーマーがドラムスにスカウトされ、3人の
陣容が整った
レイクはモーグ・シンセサイザーの導入をエマーソンに提案し、彼らの音楽的個性の結実につながる
ことになる
当初バンド名をトライトン( Triton )にするというアイディアもあったが、結局3人のファミリー・
ネームを並べたエマーソン・レイク&パーマーとなり、1970年6月に結成が公表される
3者ともすでに知名度と人気を獲得していたため、デビュー当時からマスコミも注目し" スーパー・
グループ "と呼ばれていた
∈ 全盛期時代 ∋
1970年8月、EL&Pはプリマス・ギルド・ホールで記録上のステージを行う、ただしエマーソンによると
これはウォーム・アップでありEL&Pの実質的なステージ・デビューは8月29日にワイト島で開催された
" 第3回 ワイト島ポップ・フェスティバル "であるとされている
このライヴは観客には好評だったが、評論家は概ね否定的だった
以後、EL&Pはコンサート活動を行いながら並行してデビュー・アルバムの制作を進め、この間
エマーソンはメロディ・メーカー誌の人気投票でトップとなり、バンドもブライテスト・ホープ1位を
獲得している
同年11月にアイルランド・レコードから、バンド名と同じ名前のデビュー・アルバム" エマーソン・
レイク&パーマー "がリリースされ、その直後からイギリス、ヨーロッパ・ツアーを行った
1971年早々からセカンド・アルバムのリハーサルと録音が始まり、その中で開催された3月26日のニュー
キャッスル・シティ・ホテルでのライヴで" 展覧会の絵 "のライヴ録音が行われた
ただし、セカンド・アルバムの録音がすでに進行していることもあって、このライヴ録音のリリースは
未定、4月には初のアメリカ公演ツアーが行われている
同年5月、EL&Pはセカンド・アルバムの" タルカス "を発表、このアルバムはEL&Pが本格的にシンセ
サイザーを活用し始めた作品と位置づけられている
このころのシンセサイザーは、多くのミュージシャンに強い興味を持たれていたが、実際にどう使って
よいのかわからないという者が多く、ミュージック・コンクレートなどで電子音を出すか、ウォルター・
カーロスやホット・バターのような" 多重録音によるシンセサイザー音楽 "などが実際の使用方法として
巾を利かせていた
そんなシンセサイザーをステージに持ち込んで" 楽器 "としての可能性を提示したのはEL&Pが先駆け
である
同年9月のメロディ・メーカー誌の人気投票では、前年のレッド・ツェッペリンに代わってEL&Pが
首位になり、" タルカス "もアルバム部門で首位を獲得している
このころ、ブートレッグ( 海賊盤 )の問題が発生、3月に収録したまま発売未定となっていた" 展覧会の
絵 "のライヴ演奏が10月ごろから出回っていた
これまでのEL&Pの2作のアルバムとは一線を画した内容であることなどの事情から" 展覧会の絵 "を
発表しないままでいたが、ブートレッドの流通はEL&Pサイドが無視できない事態になり、市場に
出回っているブートレッグを回収した上で、11月になって正規盤の" 展覧会の絵 "を兼価盤として発表
" 展覧会の絵 "は大ヒットとなり、イギリスやアメリカ、ヨーロッパ、日本でもランキングされる
ことになる
1972年1月、次作のアルバム録音を行い、3月にはアメリカ・ツアーを行った
このツアー中、エマーソンはモーグの工場を訪ねている
6月には通算4枚目でスタジオ録音盤としては3作目になる" トリロジー "が発表され、世界規模のツアーが
開始、7月には来日し後楽園球場と阪神甲子園球場で野外コンサートが開かれたが、甲子園球場では
観客がステージになだれ込み途中で中止になるアクシデントがあった
9月のメロディ・メーカー誌の人気投票ではEL&Pは1位を獲得し、各メンバーも担当楽器部門でそれぞれ
1位を獲得、10月にはこの年初のイギリス・ツアーが行われ、このツアーでパーマーはドラム・シンセ
サイザーを初めて使用、また、レイクは元クリムゾン・キングのピート・シンフィールドのソロ・
アルバム" スティル "の制作に参加している
1973年1月、EL&Pの主催するマンティコア・レーベルの発足が正式に発表された
このレーベルはEL&Pのほかに、イタリアのプレミアータ・フィルネリア・マルコーニ、バンコや
ピート・シンフィールド、EL&Pの前座を務めたストレイ・ドッグなどと契約している
また、これに伴いEL&Pのイギリスでのリリースはアイランド・レコードからWEAに移動となる
2月には、後に" 恐怖の頭脳改革 "と題されるニュー・アルバムのレコーディングが開始され、その
レコーディングの途中でワールド・ツアーが始まっている
11月にマンティコア・レーベルの作品としては初めてのEL&Pのアルバム" 恐怖の頭脳改革 "が発表され
同時にアメリカ・ツアーが行われた
1974年3月から開始されたヨーロッパ・ツアーの後、4月にはアメリカでの" カリフォルニア・ジャム "に
出演、このときのヘッドライナーをディープ・パープルとどちらで務めるかで揉め、結局EL&Pと
なったが、ディープ・パープルの演奏時間が長かったため縮小せざるを得なかった
その後、イギリスに戻ってツアーを行う
7月になると、1973/1974年のツアー音源から、3枚組のライヴ・アルバム" レディース・アンド・
ジェントルマン "がリリース、原題の" Welcome Back My Friends to the Show That Never Ends
Ladies and Gentleman "は、1974年4月に行われたウェンブリー・アリーナのコンサートにおいて、司会
のアラン・フリーマンが言った" 恐怖の頭脳改革 "収録の" 悪の教典 #9 "の歌詞の一部をもとにした
コメントが使われている
8月まで行われたアメリカ・ツアーを最後にEL&Pは活動を停止、その後は1977年に次作に当たるアルバム
までEL&Pはグループとしての活動は行っていない
∈ 活動末期 ∋
1974年のアメリカ・ツアーの後、EL&Pのメンバーとして多忙さに嫌気がさしたエマーソンは、自作の
" ピアノ協奏曲第1番 "の制作に携わっていたが、エマーソンのソロ・アルバムとしてではなく、レイクや
パーマーのソロ企画と合体した作品とする方針が選択され、1977年" EL&P四部作 "として世にでることと
なった
このアルバムはLPでは2枚組で計4面で、そのうち最初の3面が各メンバーのソロ、終わりの4面がEL&Pと
しての作品になっており、バックにオーケストラを導入している
しかし、同時の行われたオーケストラ帯同のツアーは結果的に失敗となったが、モントリオールの
オリンピック・スタジアムでのコンサートは、後に" イン・コンサート "としてライヴ・アルバムと
ビデオ・ソフト化が発売されている
同年11月に" EL&P四部作 "の続編として" 作品第2番 "がリリースされたが、収録された12曲のうちの
かなりの数が、何年も前に作られた曲であった
1978年、もはやメンバーがEL&Pの活動の継続をするのに否定的で、次のアルバム制作中に3人は、それを
最後に解散させることに合意していた
税金問題の絡みもあって、そのアルバムはイギリスではなくバハマで録音されている
そして同年9月に発表されたのがアルバム" ラヴ・ビーチ "だが、このアルバムのためのプロモーション
ツアーは行われなかった
1980年2月、EL&Pの解散が正式に発表、解散発表は朝日新聞、東京新聞、北海道新聞などの記事にも
なっていた
∈ ソロ ~ ユニット活動 ∋
1981年までバハマに残ったエマーソンは、そこで映画音楽やソロ・アルバムを制作
レイクはゲイリー・ムーアらと共演したソロ・アルバム2作を発表し、ムーアが同行してのツアーも行う
また、解雇されたジョン・ウェットンの後任としてエイジアに一時在籍し、来日公演にも参加している
エイジアはセカンド・アルバムとサード・アルバムの間の時期で、レイクはスタジオ録音のアルバムには
関わっていないが、来日公演の模様を収めたライヴ・ビデオ" ASIA in ASIA "が発表され、レイクの姿を
観ることができる
カール・パーマーは自身のバンドPMとして1作のアルバムを発表した後、ジョン・ウェットン、ジェフ・
ダウンズ、スティーヴ・ハウとエイジアを結成し、EL&Pの元メンバーの中で最も成功した
1980年代半ば、EL&Pの再結成の話が出た際にパーマーがエイジアの活動に集中していたために、それに
応じず、代わりにコージー・パウエルが加入し1986年にエマーソン・レイク&パウエルとして活動を始め
省略名も以前と同じEL&Pになるが、このバンドをEL&Pと捉えることをパーマーは否定しているが
エマーソンはインタビューで" エマーソン・レイク&パウエルはEL&Pの再結成バンドだ "と発言しており
ライヴではEL&P全盛期の作品も演奏していた
このバンドは1枚のアルバム・リリースと1度のライヴ・ツアーの後にパウエルの離脱により解散、
エイジアからのパーマーの離脱を受けて、エマーソンとレイクはパーマーを誘って再結成に向け
リハーサルを開始したが、すぐにレイクが離脱してしまう
エマーソンとパーマーは、エイジアのマネージャーであったブライアン・レーンから紹介されたロバート
ペリーを迎えて、同じくトリオ編成の3( スリー )を結成し、1988年にアルバム" スリー・トゥ・ザ
パワー "を出すが、ライヴツアー後解散、エマーソンはインタビューで" 3はEL&Pの再結成バンドでは
ない "と発言している
∈ 再結成 ∋
エマーソンもレイクもソロ・アルバムのリリースを目指していたが、それでは売り上げが見込めない
という理由でレコード会社が難色を示していた
1991年、2人は話し合いの末に再結成をすることを決め、パーマーを誘い1992年にアルバム" ブラック・
ムーン "を発表、その後、世界的ツアーを行い約20年ぶりに来日公演も果たしている
1994年には4枚組CDボックス・セットの" リターン・オブ・ザ・マンティコア "を発表、1994年には
アルバム" イン・ザ・ホット・シート "を発表している
ジェスロ・タルの北米ツアーの前座など、継続的なライヴ・ツアーを行い、1997年のモントルー公演を
撮影したライヴ・ビデオも制作されたが、その後はバンドとしてのライヴ活動はなく実質的に解散
状態となる
∈ バンドの終焉 ~ メンバーの死去 ∋
2002年、レイクがリンゴ・スター主催のバンドのメンバーとしてアメリカ・ツアーに参加、同年
エマーソンはザ・ナイスの復活やキース・エマーソン・バンドとしてのツアーを敢行している
また、エマーソンは2004年公開の『 ゴジラ FINAL WARS 』の音楽を担当している
パーマーはオリジナル・メンバーで再結成したエイジアに参加し、ワールド・ツアーを行った
2010年、エマーソンとレイクがキーボードとギター/ベースのみのデュオ形態でアメリカ・ツアーを行い
ザ・ナイス、キング・クリムゾン、EL&Pのナンバーを新アレンジで演奏した
来日公演も予定されていたが、エマーソンの病気のために公演は中止となる
7月25日、EL&Pの一夜限りの再結成ライヴがロンドンのイベント" ハイ・ボルテージ・フェスティバル "
のメイン・アクトとして実現した
このイベントには、パーマーの参加しているエイジアも共演したが、パーマーは" 今後EL&Pとしての
活動は行わない "と発言している
2016年3月、キース・エマーソンが他界、同僚のグレッグ・レイクやカール・パーマーは" 彼は先駆者
にして革新者であり、彼が作った音楽は永遠に生き続ける "と追悼の念を述べている
そして同年12月、癌による闘病の末、グレッグ・レイクも他界、残されたカール・パーマーは同じ年に
2人もメンバーを亡くしたことに落胆した
2017年、カール・パーマーは自身のバンドを" Carl Palmer's ELP LEGACY "名義で率いて、キース・
エマーソンとグレッグ・レイクを追悼するワールド・ツアーを行った