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Viva SANTANA - ビバ・サンタナ -

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Explanaton " Viva SANTANA "

 

サンタナの誕生は同時に、サンフランシスコのハイト・アシュベリー地区から自然発生した" ヒッピー・

ムーヴメント "およびフィルモアを始めとするダンス・ホール・シーンの幕開けでもあった

いうなればサンタナの歴史は、そのままシスコのロック・ヒストリーであるといってもよいだろう

1947年7月20日、マリアッチとテキーラの本場であるハリスコ州( メキシコ )のオウトランで生まれた

カルロス・サンタナは、1961年に一家とともにアメリカのサンフランシスコへと移住してきた

アルバム" ハバナ・ムーン "で共演している父のホセ・サンタナはマリアッチ・バンドのヴァイオリニスト

で、カルロスが初めて手にしたギターとアンプは、その父からのプレゼントだった

やがて、ハイ・スクールを卒業すると、カルロスは家出して再びメキシコに戻り、国境の街ティファナの

歓楽街、つまりは" 赤線地帯 "にあるクラブで働き始める

彼はここでブルースのレコードを聴きあさったり、国境を挟んで隣接するサンディエゴの放送を聴いて

学びながら、マリアッチのギタリストとしてステージに立つ日を送っていた

そんなカルロスがサンフランシスコの一家のもとへ戻ってきたのは1966年のこと

1965年にハイト・アシュベリー地区を中心に起こったヒッピー・ムーヴメントが熱気を帯び始めていた

ころであり、フィルモアがオープンしてシスコは本格的なダンス・ホールの時代を迎えようとしていた

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サンフランシスコは1950年代からニューヨークのヴィレッジと並ぶビートニク詩人たちの拠点であり

アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダー、ジャック・ケルアックマイケル・マクルーア

ローレンス・ファリンゲティらが訪れたり、あるいは住みついたりしていた

市内にはトーク・プレイスとしてのコーヒー・ハウスも数多く、ファリンゲティのブック・ストア

" City Lights "は早くから学生たちの溜まり場であった

1960年代になるとバークリーのキャンバスを中心に" フリー・スピーチ・ムーヴメント "が起こる

ヒッピーたちの登場もこれらの背景と無縁ではない

ハイト・ストリートとアシュベリー・ストリートが交差するハイト・アシュベリー地区は、とりわけ

シスコ名物といわれる古いヴィクトリア王朝スタイルの出窓式建物がビッシリと立ち並んでいる

これらの建物は老朽化したものも多く家賃が格安だったこともあって、ごく自然にビートニク詩人や

芸術家、演劇家、学生、ミュージシャン、あるいは会社や大学をドロップ・アウトした連中が集まって

くるようになった

そしてその多くは数人で大きな家を一軒借り共同生活を始めたのである

こうした" 共同生活 "というスタイルはハイト・アシュベリー地区を中心に急速な広がりを見せ、人種

国籍を超えてひとつ屋根の下で暮らすことも珍しくなくなった

親子兄弟の血族からなる家族中心主義から他人同士による" 共同生活 "へ、このライフ・スタイルの変革が

そもそもすべての始まりであった

ライフ・スタイルの変革は各地にコミュニティを生み出し、それは次第にヒッピー思想へと発展した

 

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やがてハイト・アシュベリーの住人たちの間には連帯感が芽生え、彼らは新しいライフ・スタイル、

価値観、それにコミュにティ志向という共通基盤をもとに、既存の社会モラル、伝統的価値観、競争

社会を否定して、社会変革、意識改革を目指して実践的に動き始めた

これがヒッピー・ムーヴメントの始まりであり、この年1965年にはシスコ各地に点在するコミュにティ

からウォーロックス( 後のグレイトフル・デッド )、ジェファーソン・エアプレイン、グレイト・

ソサエティ、チャーラタンズなどのグループが相次いで誕生したのである

 

その間、アメリカではケネディ大統領暗殺事件による政治混乱を招き、マルコムXが暗殺されるに至って

人種差別撤廃運動はますます勢いを増していった

1965年8月にはトンキン湾事件を契機に北ベトナムへの爆撃が開始され、ベトナム戦争は泥沼化の様相を

呈し、国内ではロスアンゼルスのワッツ地区で黒人暴動が起こるなど、アメリカの屋台骨は明らかに

揺らぎ始めていた

そんな状況下の中でヒッピーたちは髪を長く伸ばして体制に組み込まれることを拒否し、" ラヴ&ピース "

をスローガンに反戦平和、徴兵拒否運動を繰り広げる

その後、大学のキャンパスでも" ティーチ・イン "などが開かれ、ベトナム反戦運動、学園紛争は全米へと

飛び火することになる

全米の諸都市の中でも、特にサンフランシスコでベトナム反戦運動の火の手が上がったのにはそれなりの

背景があった

ベトナムに送り込まれる米兵のほとんど、および武器類の大半がサンフランシスコを経由して太平洋を

渡っていったからである

ともあれ、サンフランシスコのバンドの多くは、反戦運動に身を投じているヒッピーや若者たちのために

演奏し、" とっておきの夜 "を提供したのだった

 

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一方、時を同じくしてシスコではもうひとつの変化が起ころうとしていた

閉じ、音楽シーンではシスコ最初のロック・グループといわれたサン・ヴァレンティノ率いるボー・ブラ

メルズ、ダン・ヒックス率いるチャーラタンズ、モージョ・メン、ナイトライダーズ、ファイナル・

ソルーションらが活躍し、オウタム・レコードやファンタジー・レコードなどのインディペンデントが

設立されるなど、それなりの充実ぶりをみせていた

ちなみにオウタムからはボー・ブラメンズがデビューして大ヒットを放ち、プロデューサーでは後に

スライ&ファミリー・ストーンを結成して時代の主役を担うことになるシルヴェスター・スチュワート

が活躍、一方ファンタジーからは後にクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル( C.C.R )と

名乗るゴリウォグスがレコード・デビューを飾っている

 

しかし、当時のシスコには" マザーズ " " ペパーミント・トゥリー "など小さなクラブ以外に、バンドが

ライヴ演奏できるようなホールは皆無だった

そこでジェファーソン・エアプレインのマーティ・バリンは自らの資金と友人たちの出資金をもとに

1965年8月、遂に念願のクラブ" マトリックス "をオープンした

8月13日のオープニング・ショーにはジェファーソン・エアプレイン、チャーラタンズ、ミステリー・

トレンド、グレイト・サエティらが出演、マリーナ地区のフィルモア・ストリートにオープンした

" マトリックス "はまさにオーバーナイト・センセーションよろしく、一夜にしてシスコの夜を彩る

中心地になったのである

このクラブにはウォーロックス、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー

&ホールディング・カンパニーらが相次いで出演し、シカゴからこの地へ移ってきたスティーヴ・ミラー

ブルース・バンドも1966年にここでステージ・デビューを飾っている

 

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そのころ、カルロスもティファナ時代の仲間や地元のミュージシャンとともに活動を開始し、融合集散を

繰り返してデヴィッド・ブラウン(B)、グレッグ・ローリー(key)とともにサンタナ・ブルース・バンドを

結成、ラテン・コミュにティのミッション地区での人気を背景にマトリックスに出演している

なお、グレイス・スリック率いるグレイト・ソサエティは、マトリックスにおけるライヴ・アルバム

" コンスピシャス・オンリー・イッツ・アブセンス "を残している

次に登場したのはパイン・ストリートのコミュニティ出身の" Family Dog "と名乗るアート集団であった

後にジャニス・ジョップリンのマネージャーとして知られることになるチェット・ヘルムス率いる集団

には、後にグレイトフル・デッドのマネージャーとなるロック・スカリー、スタンリー・マウス・

ミラーら個性的な連中が顔を揃えていた

Family Dogは1965年10月16日にフィッシャーマンズ・ウォルフ近くのLongshoremen's Hallでシスコ初の

ダンス・ホール・コンサートを開催、ジェファーソン・エアプレイン、マーブルズ、チャーラタンズ、

グレイト・ソサエティが出演した

彼らはその後もLongshoremen's Hallでの常打ちコンサートを行うが、1966年2月からはヴァン・ネス・

アベニューとサター・ストリートの交差点にあるAvalon Ballroomへと本拠地を移し、以後ビル・グラハム

のFillmoreの好ライバルとして人気を二分していくことになる

 

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そのころ、ビル・グラハムは" Mime Troupe "なる即興演奏劇集団をマネージメントしていたが、極めて

政治的な内容のストリート・パフォーマンスを繰り広げていたため、劇団員が逮捕されるなどの弾圧を

受けて劇団は存続の危機に瀕していた

そこで、ビルは1965年11月6日にハワード・ストリートのあるロフトでMime Troupeのための" アピール "

を行い、そのパーティに駆けつけたのはアレン・キンズバーグ、ローレンス・ファリンゲティ、ファグス

サンディ・ブルらで、ちょうど同じ日にLongshoremen's Hallの出演していたジャファーソン・エアプ

レインやFamily Dogの連中もあとから合流して大盛況だったと伝えられている

翌12月10日、今度はゲイリー・ストリートとフィルモア・ストリートの交差点に位置するFillmore

BallroomでMime Troupeのための2回目のアピール・パーティを行った

入場料は1$50¢で、ジャファーソン・エアプレイン、グレイト・ソサエティ、ジョン・ハンディ・

クインテッド、ミステリー・トレンド、ジェントルメンズ・バンドが出演して3,500人を集めた

結局、このベネフィット・コンサートの成功が契機となって、ビル・グラハムはFillmore
Ballroom借り切って常打ちのコンサートをやっていくことを決心したのである

そしてFillmore BallroomはFillmore Auditoriumと改められた

これが" ロックの殿堂 "フィルモアの誕生である

 

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1966年に入ると、サイケデリックサウンドサイケデリック・アート、ライト・ショーなどのドラッグ

カルチャーを生み出すきっかけとなるイベントがフィルモアで開催された

1962年のベストセラー小説であり、後に映画化された「 カッコーの巣の上で 」の原作者ケン・ギジー

行ったアシッド・テストがそれである

ジーはすでに1965年からLSD-25を使用したアシッド・テストを数回行っており、有名なのはパロ

アルトで行った" エレクトリック・クール・アシッド・テスト "で、このときはグレイトフル・デッド

一晩中演奏し、続いてキジーは1月21日から3日間に渡ってLongshoremen's Hallで" トリップ・フェス

ティバル "を開催、メイン・アクトは8日のフィルモア同様にグレイトフル・デッドだった

残念ながらキジー自信はイベントが始まる2日前にマリファナ所持で逮捕されたが、その事件が逆に

フェスティバルを盛り上げて超満員の状況であった

ビル・グラハムはそのキジーを支援する意味で2月4日から3日間" The Jefferson Airplane With the Sights

and The Sounds of the Trip Festival "を開催、この年LSDはシスコの若者で急速に普及していった

ちなみに、当時絶大な人気を誇っていたビートニク詩人のアレン・ギンズバーグは、LSDに関して

こんなふうに語っている

『 少なくとも1回はLSDを試してみよ LSDによって自然になり、規制された社会的な自己を超え、政府や

アメリカを超えた、広大無辺なものを自己の内部に見い出すだろう 』…詰まるところ、LSDを使った

アシッド・テストは、オールダス・ハックスリーの" 知覚の扉( メスカリン・トリップ )"と同じように

ドラッグによって既成概念を捨て去り、自己の中に眠っている" 知覚 "を呼び醒まそうとする試みだった

といっていいだろう

 

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ビル・グラハムとカルロス・サンタナが出逢ったのもこの1966年のことだった

ビル自信の回顧録によれば、フィルモアに出演しているバタフォールド・ブルース・バンドをひと目

観ようと思ったカルロスはトイレの窓から忍び込もうとして見つかったのがきっかけだったという

翌1967年1月、カルロスは自らのバンド、サンタナ・ブルース・バンドを率いてフィルモアのオーディ

ションを受けてビルに認められ、6月16、17日の両日ザ・フーのオープニング・アクトとしてフィルモア

での記念すべきステージ・デビューを飾った

ヒッピー・ムーヴメントは1967年に入ると全米に飛び火したが、その象徴的なイベントが1月14日に

ゴールデン・ゲイト・パークで開かれた" Human Be-In "であった

このフリー・コンサートにはアレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダー、ティム・レアリー、マイケ

ル・マクルーアらの詩人や活動家のほか、シスコの主だったアーティストが顔を揃えた

グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、クイックシルヴァー・メッセンジャー

サーヴィス、モビー・グレイプ、カントリー・ジョー&ザ・ホールディング・カンパニーらが出演した

このビック・イベントには2万人が集まり、後に" サマー・オブ・ラヴ "と呼ばれることになるこの

フリー・コンサートの成功は、社会現象として全米に伝えられたのである

そして舞台は6月16日から3日間に渡ってシスコ郊外のモンタレーで行われた" モンタレー・インター

ナショナル・ポップ・フェステバル "へと引き継がれる

街に花があふれ、ヒッピーたちの平和的な楽園と化したシスコの情景を歌ったヒット曲も生まれた

スコット・マッケンジーの" 花のサンフランシスコ "、エリック・バートン&ジ・アニマルズの" サンフラ

ンシスコの夜 "、フラワーポットメンの" 花咲くサンフランシスコ "…

 

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1968年3月、ビル・グラハムはシスコでの成功をもとにニューヨークに進出、Fillmore Eastをオープン

させた

続いて7月には手狭になり借用期限も間近に迫っていたFillmore Auditoriumを手放して、ヴァン・ネス・

アベニューとマーケット・ストリートの交差点にある2倍程度の大きさのCarousel Ballroomへと移り

当たらにFillmore Westとしてオープンさせたのだった

1968年になるとサンタナフィルモアの常連として顔を出すようになり、グループ名もサンタナ

ブルース・バンドからシンプルに" SANTANA "と改めていた

カルロスがギタリストとして注目を集めるきっかけとなったのは、マイク・ブルームフィールドとアル・

クーパーの2人をコアとして作られたライヴ・セッション・アルバム" フィルモアの奇蹟 "での客演だった

レコーディング中にマイクが過労で倒れ、急遽駆けつけたカルロスとエルヴィン・ビショップがマイクの

パートを肩代わりしてアルバムは完成されたのだ

すべてがハプニングの連続だったこの作品こそは、紛れもなく" フィルモアの奇蹟 "だったという

べきであろう

翌1969年はサンタナにとって特筆すべき年となった

すでにシスコのトップ・グループに一角を担っていた彼らは、フィルモアにおいても堂々とトップ・

ビルとして出演していたが、なんといっても全米はおろか全世界のサンタナの名を知らしめたのは

伝説の" ウッドストック "での熱演であった

サンタナはビル・グラハムの協力を得て、1969年8月21日から3日間に渡ってニューヨーク州のウッド

ストックのヤスガー農場で行われた" ウッドストック・ミュージック&アート・フェア "に出演するや

熱狂的な支持を獲得、そして同年10月には待望のデビュー・アルバム" サンタナ "をリリース、新人

グループながらいきなり全米アルバム・チャート4位まで上る大ヒットとなってネーション・ワイドな

人気を得たのである

  

フィルモアの奇蹟(期間生産限定盤)

フィルモアの奇蹟(期間生産限定盤)

 

 

ライヴ・アット・ザ・フィルモア ’68

ライヴ・アット・ザ・フィルモア ’68

 

 

その後から現在に至るまでは知ってのとおりだが、1988年当時ビル・グラハムとの友人関係はマネー

ジャーとアーティストという形で続いていた

本格的な活動を開始した1966年以来、サンタナはシスコのロック・シーンに育まれシスコとともに

歩んできた

サンタナのヒストリーはシスコのヒストリーであり、シスコのヒストリーはサンタナのそれでもある

まさに" ハート・オブ・サンフランシスコ "と呼ぶにふさわしいサンタナであるが、シスコのほかの

アーティストと異なっている点は、このグループがシスコのラテン・コミュニティ出身である点だろう

当時、カリフォルニア州は500万人ものメキシコ系アメリカンが住み、全米のヒスパニック系では最大の

人口を誇っていて、少数民族にとっての1960年代のアメリカ社会は、現在とは比べ物にならないほどの

厚い壁であった

その立ちはだかった厚い壁を、ブラッド・ラインを背負いながらも、ロックで打ち破った最初のビッグ・

アーティストがほかならぬ" SANTANA "だったのである

そこにサンタナの知られざる偉大性があるのではあるのではないかと思う

 

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