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JOURNEY - ジャーニー -

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Monster Band ~ JOURNEY ~

 

1975年のレコード・デビュー以来、常にアメリカン・ロック・シーンにエポックを築き続けてきた

ジャーニー、ジャーニーはいつの時代においても、その先駆けを果たした

彼らがいかにアメリカの数多くのバンドたちに影響を与え、主流さえも構築したということは

明らかである

MTVが全盛において、HR/HM系のバンドがバラードを創ることによって成功を収め、ヒット・チャート

の常連と化していたのも、実はジャーニーの実績がそうさせたといっても過言ではない

インプロヴィゼイションを基本とするインストゥルメンタル・バトルが主体のサウンドからスタートした

ジャーニーは、ハード・ロックプログレッシブ・ロックの両側面を有しながらスタイルを変えていく

当時彼らは、アメリカン・ヘヴィ・ロックと地元で称されたように、そのルーツにハードな音があった

のは事実である

そんなジャーニーがバラードを作り、初めて全米チャートでスマッシュ・ヒットを飛ばした

これぞトレンドにもなったアメリカン・ロックへのベーシックなスタイルであった

ジャーニーはすでに1977年時点でこうした志向をあらわにしていたのである

まさに、彼らの足跡こそパイオニアそのものだと断言せざるを得ない

ここで、ジャーニーのバイオグラフィを振り返ってみる

 ✧       ✧       ✧

まず忘れてならないのは1969年8月に行われた未曾有のロック・フェスティバル、ウッドストック

ことである

ニューヨーク州サリバンのヤスガーズ・ファームで行われたこのステージに当時ベイ・エリア( サンフラ

ンシスコ )では名を馳せていたサンタナが登場

エロティックなパッションを撒き散らすサンタナは大勢の観客を魅了し、またたく間にアメリカ中に

その名を轟かせることになる

カルロス・サンタナを中心とするこのバンドはラテン・ロックと呼ばれたが、核となったのはカルロス

だけでなく、キーボード・プレイヤーでありフロント・マンだったグレッグ・ローリーにあったと

コズミックなキーボードにのせて歌うその声は甘くセクシーな響きがあった

彼らのビッグ・ヒットとなるフリート・ウッドマックのカバー" ブラック・マジック・ウーマン "は、

まさに静けさの中にエロティシズムが漂うリメイク・チューンだったが、その最大のポイントはグレッグ

にあったといってもいい

サンタナはそうしてデビュー・アルバムを200万枚、セカンド" 天の守護神 "を350万枚セールスして

スターダムを駆け昇ったのである

そして、そのピークともいうべき" サンタナⅢ "のとき、若き天才ギタリストの名をクラブ・シーンでは

欲しいままにしていたニール・ショーンが加入するのだ

 

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ニールは当時、ビル・グラハムが経営するフィルモア・ウエストの常連で、数多くのミュージシャンと

セッションを繰り返していた

折しも、そのニールとジャムったのが、そのころ鳴り物入りだったエリック・クラプトン、デュアン・

オールマンのいたデレク&ドミノスだった

これだけの事実をとってもシール・ショーンがいかに凄まじいテクニックを備えていたかがわかる

しかし、ニールは悩み抜いたあげく以前からの知り合いであったカルロス・サンタナの誘いを受けて

サンタナ加入を決めるのだ

こうしてニールはサンタナの一員となり、一躍脚光を浴びることになる

カルロス・サンタナとのギター・バトルは、今となってもファンの語り継ぐところである

だが、その栄光は長く続かずニールはグレッグとともにサンタナの4作目" キャラバンサライ "の

レコーディング中にバンドを離脱してしまう

同時にサンタナのツアー・マネージャーだったハービー・ハーバードもバンドからドロップし、ニールと

行動をともにするようになる

ニールの才能に惚れ込んだのは決してエリック・クラプトンカルロス・サンタナばかりではなかった

ハービー・ハーバードも、サンタナのロード・マネージャーの座を捨ててまでニールに自らの命運を

賭けてみようと決意したのだ

まず、ハービーはニール・ショーンのためのプロジェクトづくりに奔走する

スライ&ファミリー・ストーンのグレッグ・エリコ、後にジェファーソン・スターシップに加わる

ピーター・シアーズの2人にニールとトリオを組ませハッピー・バースディと名付ける

このハッピー・バースディはエモーショナルでエネルギッシュなプレイを身上とし、またたく間に

ベイ・エリアでは最強のインストゥルメンタル・バンドとなるが、その生命は短かった

このプロジェクトが崩れるとハービーは、ファビュラス・バンダー・スナッチ以来の旧知の仲である

ロス・ヴァロリー(B)をスティーヴ・ミラー・バンドから引き抜き、ドラムにはチューブスからプレイリー

プリンスを迎い入れた

さらにサンタナを離れてから地元シアトルでくすぶっていたグレッグ・ローリーにも連絡を取り

バンド参加を説得、ハービーの要請に応えたグレッグが加入しバンドはゴールデン・ゲート・リズム・

セクションと名乗った

 

しかし、ここでも早々とプレイリー・プリンスがチューブスへの復帰を訴えリタイヤ

バンドはオーディションを繰り返すが適切な人材が見つからず、結局はニールの過去のセッション人脈の

中からエインズレー・ダンバーが選ばれた

エインズレーは自らのプロジェクト、リタリエイションやデヴィッド・ボウイのバック・マンとしても

知られるドラマーで、このイギリス人ドラマーが加わったことでバンドはスタッフであるジョン・

ビラヌエバによって" ジャーニー "と命名される

さらには地元でコンポーサー、あるいはセッション・ギタリストと知られていたジョージ・ティックナー

を加え5人組のバンドとしてスタートした

ときに1975年、コロムビア・レコードと契約を結んだジャーニーは順風満帆な船出をする

元来がセッション・マンの集まりだけに、そのサウンドは長いインプロヴィゼイションが主体のまさに

ハードでプログレッシブな味わいを持つものだった

このジャーニーのサウンドを称してプレスは" スペイシー・ロック "と呼んだ

サンタナの肩書きもジャーニーに味方し、ファースト・アルバムは全米でも注目の的となった

勢いを買ったジャーニーは翌1976年にセカンド・アルバム" 未来への招待状 "をリリース、前作より

タイトにハードになったものの、その志向性は変わることはなかった

ジャーニーが、アメリカン・ハード・ロックと呼ばれるようになったのは、このアルバムのカラーが

強かったためだろう…しかし、ここでジョージ・ティックナーが脱退

4人組の編成となったジャーニーだが、続くサードの" ネクスト "も基本的にはセカンドに近かったが

サウンドがこもりがちになっていったのは、このころのメンバーがドラッグやアルコールにどっぷりと

浸かり、もっとも不健康で精彩を欠いた時期だったことも影響している

セールス的にも落ち込んだのは、そういったことも大きく関わっていたのはいうまでもない

 

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そこで、ハーバードはジャーニーの立て直しに出た

抜本的な改革、つまりそれは今までのスタイルからバンドを脱皮させることだった

グレッグ・ローリーに変わり専任のヴォーカリストを加えることで、ジャーニーをセッション的イメージ

から解放し、一個のロック・バンドとして成り立たせようとしたのである

最初にハーバードはロバート・フライシュマンをリード・ヴォーカルに選んだ

歌えて曲も書けるロバートはバンドに帯同しニールと曲作りにも励んだ

そしてツアー中のこと、ある日突然ロバートはクビを宣告されることになる

それはハービーがロバート以上の才能あるヴォーカリストを見い出したからだ

その名は…スティーヴ・ペリー

ローカル・バンドでドラムを叩きながら歌っていたスティーヴは、ハービーに自分のデモ・テープを

送りつけチャンスの日を待っていた…そのテープ1本が運命を分けた

すぐさまロバートに代えてスティーヴをバンドに送り込んだハービーは、そのままツアーを続行させ

新たにニールと曲作りをするよう司令したのだ

そして完成したのがジャーニーにとってターニング・ポイントとなった" インフィニティ "である

コズミックなハードさを残しつつも、伸びやかなスティーヴ・ペリーのヴォーカルをフューチャリング

したアルバム" インフィニティ "は、それまでの暗く淀んだ空気を取り払うに充分なクオリティを保って

いて、クィーンを育てたロイ・トーマス・ベイカーの多重録音技術も功を奏し、ジャーニーにとっては

別の世界が広がったような作品になった

全3作よりニールのギターが控え目になりヴォーカル主導で曲が進んでいく、特にバラード" ライツ "や

" ペイシェントリー "といった従来にない志向性の楽曲が全米チャートでもヒットし、彼らの今後の

行方を決定づけた

これを不服としたのがエインズレー・ダンバーである

セッション的イメージから遠のいていくジャーニーに失望し、エインズレーは成功とは裏腹にバンド

脱退を敢行する

 

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しかし、エインズレーの代役はすぐに決まった

以前ジョイントしたことのあるモントローズのドラマー、スティーヴ・スミスが名乗りを上げたからだ

ティーヴのプレイを実体験していたメンバーはすぐに同意し、スティーヴ・スミスを加えて次作の

レコーディングが始まった

" エヴォリューション "と題されたこのアルバムは。ジャーニー特有のドラマ性も残しながらも、徐々に

バンドとしてのまとまりを全面に押し出す作品となる

バラードの強化とフロント・マンにスポットを浴びさせる主張が、この" エヴォリューション "には

充満していた

ここでもバラード" 運命の翼 "やブルース・タッチの" ラヴィン・タッチン・スクィージン "がヒットし

ジャーニーの進化も成功をみたのである

このアルバムのリリース直後、ジャーニーは初めての来日を果たすことになる

続く" ディパーチャー "では、ますますジャーニーのメジャー志向は強まり曲調も暗い曲から明るく弾む

ようなものに変わった

" お気に召すまま "はその典型であり、この曲のヒットによって多くのファンがジャーニーを認知したのは

事実である

プロデューサーにも" インフィニティ "以来のエンジニア、ケヴィン・エルソンを起用、これが見事に

ハマってジャーニーの黄金時代が幕を開ける

" インフィニティ "が200万枚、" エヴォリューション "が250万枚、" ディパーチャー "が300万枚のセール

スを記録するに至って、ジャーニーは完全にアメリカン・ロック・シーンを語る上で欠かせぬ存在となる

この3枚のアルバムを出世三部作と呼ぶのは、こうしたいきさつがあるからだった

 

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1980年、2度目の来日を果たしたときジャーニーは、サウンド・トラックにもチャレンジした

それが、高田賢三プロデュースの" 夢・夢のあと "で、コットンの詩人として名を海外に馳せるデザイナー

高田賢三監督の映画の音楽をジャーニーが担当し日本でレコーディング、この話題性は当時としては

凄いものがあった

ジャーニーはストリングス・アレンジャーであるニール・ショーンの父、マット・ショーンも帯同して

日本を訪れ、わずか7日間でこのアルバムを録り終えた

名曲" リトルガール "を含むこのサウンド・トラックは、海外ではリリースされずファンの間ではプレミア

がついたとの話も聞いたことがあった

このサントラのレコーディングの相まってライヴもこなしたジャーニーだったが、このコンサートが

オリジナル・メンバーのグレッグ・ローリーにとっては最後の日本公演となった

長年のロードに疲れ切ったグレッグは、それまでのジャーニーの足跡でもある" ライヴ・エナジー "を

残し、バンドを去ったのである

 

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そして、新たにキーボーディストとして加わったのが、元ベイビーズのジョナサン・ケインである

ジョナサンの場合もドラムスのスティーヴ・スミスと同じ形態でバンドに加入した

キーボードだけでなくギター、コンポーサーとあらゆる才能を持つジョナサンの参加で、さらに

ジャーニーは変革を遂げていくことになる

彼らを全米No.1という輝かしい栄光に導いた作品" エスケイプ "は、ここから誕生した

ハードさを抑えたAOR的な味わいをかもし出す楽曲の数々は、ジョナサンの透明感あふれるキーボードが

サポートし、スティーヴ・ペリーのヴォーカルが際立った

" オープン・アームズ( 翼を広げて )"のビッグ・ヒット、" クライング・ナウ " " 愛に狂って "などの

ヒット・バラードがジャーニーの代名詞ともなったが、ニール・ショーンのプレイも初期と比べると

円熟味を増していることがわかる

このビッグ・サクセスによりジャーニーは、遂にアリーナ級のアーティストとなり、日本でも武道館を

フルハウスにするショーを行ったりしていた

通算8作目となるアルバム" フロンティアーズ "は、" まだハード・ロックもプレイするんだぜ "という

ジャーニーのルーツ的な面もみせ、ファンに改めて彼らが単なるバラード・バンドでないことを証明した

その典型の1曲が" セパレイト・ウェイズ "であるし、" チェイン・リアクション "も強烈なリフがイン

パクトを持った曲だった

だが、このアルバムからも" 時への誓い "などがヒットし、ジャーニーのバラードを支持するファンは

完璧に定着していることを示したのである

こうしてAOR化したジャーニーとは別に自らの方向を模索するニールはソロ・プロジェクトに着手する

81年のヤン・ハマーとのジョイント・アルバム" 閃光 "を皮切りに" パワー・オブ・エナジー "、サミー・

ヘイガーとの共演作" 炎の饗宴 "などをリリースした

ほかのメンバーも、ジャーニーとは違った活動をみせ、スティーヴ・ペリーが初ソロ・アルバム

" ストリート・トーク "を、スティーヴ・スミスがジャズ・アルバム" ヴァイタル・インフォメーション "

や" オライオン "を発表したりしている

しかし、このころからメンバー同士の意思の疎通はなくなり、特にニール・ショーンとスティーヴ・

ペリーの関係は悪化していく

単独行動をとることの多いスティーヴに比べ、ニールはジョナサンと一緒にいることが増え、バンドは

まったくバラバラになってしまった印象を多くのファンに与えたのである

 

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当時その象徴ともいうべきジャーニーにとってのラスト・アルバムは86年にリリースされた" Raised on

Radio~時を駆けて "とタイトルされたこのアルバムには、すでにロス・ヴァロリーやスティーヴ・スミス

の姿はなかった

ニールとジョナサン、そしてスティーヴ・ペリーのみのプレス・キットやアーティスト写真は

" フロンティアーズ "以来の4年間に渡る長いインターバルを物語るように、ファンに寂しさを覚え

させたものだ

久々のアルバムということで" Raised on Radio~時を駆けて "はヒット・チャートを賑わせたが、かつて

の勢いはやはりみられなかった…そこにはすでにジャーニーがバンドとして存在しないという厳然たる

事実が隠されていたのである

結局アルバムはリリースされたものの、完璧なツアーは行われずジャーニーはそのまま解体してしまった

メンバーは、それぞれの方向へ散っていったがニールはソロを続け、アルバム" レイト・ナイト "を発表

そして間もなく元ベイビーズのジョン・ウェイトのバンド、バッド・イングリッシュにジョナサン・

ケインとともに参加した

一方、スティーヴ・スミスはジャズ・プロジェクトを推進し、クラブなどでライヴを続けていく

またスティーヴ・ペリーはソロ・アルバムの制作に入るが、うまくいかず音無しの状態が続いた

そうするうちに90年代に入り、ソロ・アーティストとして復活していたグレッグ・ローリーが突如、

ロス・ヴァロリー、スティーヴ・スミスなどとザ・ストームを結成、また、ニール・ショーンは2枚の

アルバムを出したバッド・イングリッシュを去り、LAのローカル・バンドにいたジョエリー兄弟と

ハード・ラインを結成してシーンに再び浮上してきた

これが1900年初頭の大まかな動きであったが、" Raised on Radio~時を駆けて "のリリースから10年後の

1996年、スティーヴ・ペリーニール・ショーンジョナサン・ケインの3人にロス・ヴァロリーと

ティーヴ・スミスの2人を迎えた1983年の当時のバンド・ラインナップによって、ジャーには新たな

アルバム" トライアル・バイ・ファイアー "をリリース、オリジナル・アルバム10作目にあたるこの

作品は、最高3位の実績を残した

しかし、スティーヴ・ペリーの正式脱退が伝えられ、スティーヴ・スミスもバンドを離れることになる

 

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そして新メンバーとしてスティーヴ・オージェリー(Vo)とディーン・カストロノヴォ(Ds)を加え

再スタート、2000年に" アライヴァル "、2002年にはイタリアのフロンティアース・レコードに移籍して

初のアルバム" レッド13 "、2005年には" ジェネレーションズ "を発表するも、喉の感染症を治療するため

ティーヴ・オージェリーがバンドを離れることになり、ジェフ・スコット・ソートが加入したが

2007年に脱退、ジャーニーは公式ウェブサイトを通じて活動休止をアナウンスする

が、2007年12月、ジャーニーはフィリピン人シンガーのアーネル・ピネダをリード・ヴォーカルに迎え

このラインナップですぐさま" レヴェレーション "をリリースしヒット、バンドとして再出発となった

2011年にはスタジオ・アルバムとしては14作目にあたる" エクリプス "をリリース、ビルボード

トップ200において初登場13位を記録した

2015年、ドラマーのディーン・カストロノヴォが解雇され、代わりに1998年に脱退したスティーヴ・

スミスが再加入し、2017年来日公演を果たしている

 

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