ディープ・パープル、ブラック・サバスと並んで
三大ハード・ロック・バンドの一組" Led Zeppelin "
1968年" レッド・ツェッペリンⅠ "でデビューした彼らは、音楽シーンに革新的なハード・ロック・
サウンドを提示した
アコースティック・ナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッドから中近東音楽に亘る巾広い音楽性を
持っているが、彼らはテレビでの演奏を拒否しプレスに対し辛辣な態度を取るなど常にマスメディアと
距離をおいており、最初期を除きテレビではほとんど演奏しなかった
しかし、小さなクラブや大学のステージでの演奏が口コミで伝わり人気を獲得していき、ジミーペイジ
の望んだ通りの莫大なアルバム・セールスを記録した
当時は、まずはシングルを出し、それをラジオやテレビで流した上でレコードを買ってもらうのが普通で
あったが、彼らが本国イギリスで発売したシングルは" 胸いっぱいの愛を "と" トラブル・アンダー・
フット "の2枚のみである
しかも、" 胸いっぱいの愛を "においてはイギリスではシングル発表直後、さしたる理由も発表されない
まま回収されている
❋ ❋ ❋
❏❏ 結成までの経緯 ❏❏
スタジオ・セッション・ギタリストを経て、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックに続くヤードバーズ
最後のリード・ギタリストとなったジミー・ペイジが、当バンドの録音を経験するうち、レコード制作
に要求される配慮やヴォーカリストの重要性に目覚め、偶然性も加わってオーソリティーともいえる
各パートのメンバーを揃えて結成された
1968年初旬、ペイジはミッキー・モスト・プロデュースのドノヴァンの代表曲" ハーディ・ガーディ・
マン "のスタジオ・セッションでジョン・ポール・ジョーンズ、後にエンジニアを務めることになる
エディ・クレイマーと共演する
ヤードバーズは、1968年7月7日のコンサートを最後にキース・レルフとジム・マッカティが脱退、クリス
ドレヤとペイジは同じミッキー・モスト・プロダクションにいたテリー・リードとプロコル・ハルムの
B.J.ウィルソンをメンバーに誘うが、リードには自らのバンドのアメリカ・ツアーが決まっていたため
断られ、ウィルソンにはプロコル・ハルムが成功しているとして断られた
ところが、すぐにテリーから" シンガーを見つけた "との電話を受け、バンド・オブ・ジョイで歌っていた
ロバート・プラントを推薦、ペイジはパフォーマンスをチェックし採用、そしてプラントがそのバンド・
オブ・ジョイにいたボンゾことジョン・ボーナムを紹介する
ボンゾは、1968年7月にアメリカのシンガー・ソングライター、ティム・ローズのイギリス・ツアーに
参加しておりハムステッド公演での演奏を見たペイジは、彼をバンドに加えることを決めアメリカに
滞在中であったピーター・グラントに国際電話をかけ報告したが、ボンゾの加入はすんなりとはいかず
プラント曰く、当時何らかの理由デバンドへの加入を頑なに拒んでいたボンゾを、プラントとグランドの
両名で合計40回近くにもなる電報での説得を行った
また、ドレヤがカメラマンに転向するとして脱退、そこで以前からセッションを通じ知り合いだった
ベーシスト、キーボーディストのジョンを誘った
ジョンは黒人音楽に精通するアレンジャーとしての地位をすでに確立していて、ペイジ同様若くして
セッション・ミュージシャンとして活躍していた
ボンゾは、最終的のプラントが" お前はこのバンドに入るんだよ! "とロンドンのスタジオに引っ張って
いった
❏❏ バンド名の由来 ❏❏
1966年5月16日、ジェフ・ベックのソロ・シングルの録音のため、ベックとジミー・ペイジ、ジョン・
ポール・ジョーンズ、ニッキー・ホプキンス、キース・ムーンの5人によるセッションが行なわれる
このセッションは非常に充実したもので、5人中4人はパーマネントなバンドとして活動を希望したが
ジョーンズが乗り気でなかったことと、いいシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫し
そのときにムーンが" もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の気球( lead
balloon )みたいに急降下するだろうぜ "と発言したことによる
" go down like a lead balloon "は" ぽしゃる "の慣用句で、ムーンの口癖であったという
そこから、マネージャーのピーター・グランドが" lead "を" led "に、" balloon "を" zeppelin "に変え
バンド名が" Led Zeppelin "に決まったとされる
❏❏ デビュー後の音楽活動 ❏❏
1968年10月に録音したアルバムのテープは、ペイジとマネージャーのピーター・グラントとの共同出資に
よるものであり、そのテープを持って渡米したグラントは、当時として破格の20万ドル( 当時レート
約7200万円 )でアトランティック・レコードと契約、グラントがマネージメントしていたジェフ・
ベックが、ヴァニラ・ファッジとのアメリカ・ツアーに参加できなくなった代わりにレッド・ツェッペ
リンを送り込み12月26日から参加させる
このツアーでツェッペリンは爆発的な評判を呼び、1969年1月12日にアメリカで発売予定のデビュー・
アルバムに5万枚の予約が入り全米10位、イギリスでは3月28日に発売され全英6位となっている
1969年10月に発売されたセカンド・アルバムは、英米ともに7週連続1位、1970年10月発売のサード・
アルバムも英米ともに1位となった
1970年のメロディ・メーカー誌の人気投票でもビートルズを破りベスト・グループ1位となり、その後も
解散するまでずべてのアルバムがメガ・セールスを記録、コンサート・ツアーでの観客動員数はトップ
であった
❏❏ 音楽的独自性 ❏❏
各メンバーの担当パートにおける実力に裏打ちされた感性や音楽性、ドラムスの独自のグルーヴ感、当初
ペイジが中心となり、後にプラント、ジョーンズ、そしてボンゾも参加し始めた楽曲はブリティッシュ
ハード・ロックの聖域と呼ばれ、ライヴでは即興演奏をし" 胸いっぱいの愛を "や" 幻惑されて " " ノー・
クォーター "などは30分以上におよぶこともあった
一般に単なるハード・ロック・バンドの一種であると誤解されやすいが、典型的なハード・ロックに
とどまらない楽曲が非常に多い
アコースティック・ギター中心の曲も多く、トラッド、メローなバラード調を始め、民族音楽的要素
ファンク、サイケデリックなど、さまざまな音楽を取り入れ自分たち流に作曲・演奏し1980年に解散
するまで、その音楽的独自性を高めていった
ツェッペリンは結成当初トラッド・フォーク・ロック・バンドとして活躍する構想もあったといわれ
これはペイジのフォーク嗜好とプラントの民族音楽嗜好などもあってのことだったが、結果的にジョン・
ボーナムというヘヴィでパワフルなグルーヴを持つドラマーを得たことにより、バンドは基本的に轟音の
ロックを志向することになる
ペイジとプラントのフォーク・トラッド嗜好も" 天国への階段 "を始め、ツェッペリンのさまざまな曲に
大きく影響している
また、パンク・ロックの象徴ともいうべきセックス・ピストルズのジョン・ライドンが、当初レッド・
ツェッペリンを" ダイナソー・ロック "と蔑称していたが、1980年代以降は自らステージで" カシミール "
を歌うようになり、さらにプラントに対して" カシミールのような歌詞はとても書けない "と告白した
ほかにも" フィジカル・グラフティ "に収録された" トランプルド・アンダー・フット "が当時のニュー
ヨークのアンダー・グラウンドのディスコで黒人たちの間で盛り上がり、頻繁にプレイされたことなどが
挙げられる
❏❏ 解 散 ❏❏
1980年9月24日のドラマーのジョン・ボーナムの事故死によって、同年12月4日解散を表明した
後継者として何名かのドラマーが名乗りを上げ、バンドでも人選に議論されたが、ボーナムのドラミング
には余人の模倣を許さないほどの特徴があり、彼のバンド・サウンドへの貢献度は非常に高かったため
" 彼無しでのバンドの継続は無理 "と判断、1982年には彼への追悼アルバム" コーダ "が発表された
❏❏ 神秘性・オカルト志向 ❏❏
ツェッペリンの残した音楽性や奏法は、今なお後進のヘヴィ・メタル・ミュージシャンに大きな影響を
与えているが、政治性や社会性をおびたストレートなメッセージ作品は、ほとんど残していないと
いわれている
ツェッペリンの特徴は、神秘性・オカルト性・黒魔術・宗教性などであるとも指摘されている
彼らの長髪やオカルト志向、ツアーの間の騒ぎなどは、キリスト教関係者には脅威を与えたが、政治通
には脅威を与えなかった…というのも、彼らが1960年代後半から1970年代前半に多くみられたプロテスト
ソングのような反体制的な歌詞を歌わなかったからである
バンドのアルバムにはヘヴィなサウンド、演奏技術にケルト文字の知識があるロバート・プラントの
歌詞も加わった
" 天国への階段 "の歌詞は、メタル・ファンの少数から資本主義に対する警鐘と勘違いされたが、バンドに
政治性はまったくなく、プラント自身は後のインタビューで" 深い意味なんてない "と語った
また、ペイジやプラントが歌詞や行動を通じてほのめかしていた神秘主義( アレイスター・クロウリー
への傾倒など )、黒魔術、オカルトやケルト趣味は、バンドの背景に神秘的なイメージを与えていた
❏❏ HMファンの支持 ❏❏
1970年代後半には、レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズやピンク・フロイドなどのハード
ロックやプログレッシブ・ロック、産業ロックを激しく批判するパンク・ロックやニュー・ウェイブが
一大ムーヴメントとなった
レッド・ツェッペリンも" ダイナソー・ロック " " オールド・ウェイヴ "というレッテルを貼られてしまう
ような流れの中、1979年アルバム" イン・スルー・ジ・アウト・ドア "を発表、アルバムは英米のみ
ならず、世界でのチャートの売り上げは好調だった
1990年代には、パンク~ニュー・ウェイヴを通過したオルタナティヴ・ロックがロック界に新風を巻き
起こし、その中でもニルヴァーナやパール・ジャムに代表されるグランジ・ロッカーたちは、モトリー
クルーやボン・ジョヴィといったHR/HMバンドを軽蔑、酷評しながらも、レッド・ツェッペリンや
ブラック・サバスといったバンドからの影響を口にしていた
カート・コバーンはヒット曲のリフを、産業ロックのボストンの曲のリフを参考にしたと発言している
2000年代には、カレージ・ロック・リバイバルの代表格バンド、ホワイト・ストライプスのジャック・
ホワイトが再結成ライヴに際し" ツェッペリンを嫌うやつは信用していない "などと発言、解散後の
1980年から2010年代に入ってからもヘヴィ・メタル・ファンの支持は手厚く、世界でアルバムは
売れ続けている