Keith Jarrett - キース・ジャレット
ジャズ・ピアニストとして広く認識されているが、クラシックなどジャンルを超えた音楽表現を身上にし
演奏楽器も、ソプラノ・サックス、パーカッション、リコーダーなど多岐にわたる
ペンシルベニア州アレンタウンにて生まれ、3歳のころよりピアノのレッスンを受ける
幼いころから音楽の才能を発揮し、8歳のころにはプロのピアニストとして自作の曲をコンサートで演奏
するという経験をしており、幼少期はクラシックの教育を受けていたが、高校時代からジャズに傾倒する
ようになった…1964年のいわゆる" ジャズの10月革命 "の影響を受けたという
卒業後にはボストンのバークリー音楽大学へ進学しバンドを結成、ジャズ・ピアニストとしての活動開始
ニューヨークへ拠点を移した後、1965年にアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーにジョン・
ヒックスの後任として加入、メッセンジャーズのアルバム" バターコーン・レディ "がレコード・デビュー
作となった
わずか2ヶ月あまりのメッセンジャーズ時代の後、翌年にはチャールス・ロイドのカルテットに参加し
ジャック・ディジョネットとともに注目される
在籍中に発表されたロイドのアルバム" フォレスト・フラワー "は、60年代後期のジャズの作品としては
もっともヒットしたもののひとつである
1967年には後のアメリカン・カルテットでも共演するポール・モチアン、チャーリー・ヘイデンの2人を
擁したトリオで初のリーダー作" 人生の二つの扉 "をアトランティック・レコード傘下のVortexより発売
しており、ロイドのカルテットには1698年ごろまで在籍している
❏❏ マイルス・デイビス・バンド加入 ❏❏
1970年、マイルス・デイビスのバンドに参加、当時のマイルスは発表したばかりの" ビッチェズ・
ブリュー "のようなエレクトリックなサウンドを追求しており、今までジャレットが経験していた
アコースティックのピアニストとしてではなくキーボーディストとしての登用だった
入団前はエレクトリック楽器の演奏を嫌っていたが、入団後はその考えも変わったという
在籍初期は先に入団していたチック・コリアとのツイン・キーボード体制の中で、主にオルガンを演奏
この間にマイルスの一員として第3回ワイト島ポップ・フェスティバルにてヒッピーの大群衆を前に
演奏するという経験もしている
3~4ヶ月という短いツイン・キーボード体制の後、チック・コリアの同バンドの退団後はオルガンと
エレクトリック・ピアノを担当し、ジャック・ディジョネットともにバンド・サウンド決定の重要な
担い手となった
在籍中の主なアルバムとしては、ライヴ盤は" アット・フィルモア " " ライヴ・イビル "、スタジオ盤では
" ゲット・アップ・ウィズ・イット " " ディレクションズ "などがあり、その後アコースティックが主体の
活動にないエレクトリック楽器でのプレイが聴かれる
マイルス・グループには1971年の終わりごろまで在籍、これ以後ジャレットはマイルスとの再共演を熱望
していたが、1991年のマイルスの死までそれが果たされることはなかった
ジャレットの1991年の作品" バイ・バイ・ブラックバード "はマイルスの死去後間もなくして追悼制作
され、マイルスへ捧げられたものである
❏❏ 1970年代 ❏❏
マイルス・グループ在籍中の1971年、グループのヨーロッパ・ツアー中に当時ドイツ・ミュンヘンの
新興レーベルだったECMオーナー、マンフレート・アイヒャーと出会い、同年録音の初のピアノ・ソロ
アルバム" フェイシング・ユー "とジャック・ディジョネットとのデュオ" ルータ・アンド・ダイチャ "を
嚆矢として、現在まで30年以上に渡ってECMより作品を発表し続けることになる
" フェイシング・ユー "ではあらかじめジャレットが作曲した曲がスタジオで演奏されており、この
スタイルのピアノ・ソロ作品としては" ステアケイス "、スタンダードを演奏した" メロディ・アット・
ネイト・ウィズ・ユー "などが挙げられるが、1972年ごろよりプログラムの一切無い完全即興による
ピアノ・ソロ・コンサートを行うようになる
ECMもそれらを積極的にレコーディングし、1973年にはブレーメン・ローザンヌで実際に行われた
コンサートをそのまま収録したLPレコード3枚組の大作" ソロ・コンサート "をリリースし、音楽界に衝撃
を与え、このスタイルでの実況録音盤の第2作である" ザ・ケルン・コンサート "はジャズのアルバムと
してもっとも高い売り上げを記録したヒット作の一つで、ジャレットの名を広く知らしめた
以後、現在に至るまで世界各地でピアノ・ソロ・コンサートを行い、折に触れて実況録音作品をリリース
しており、ジャレットのひとつのライフワークともいえる
70年代においては、ピアノ・ソロでの活動と並行して2つのバンドを率いた
1971年には以前から活動していたチャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンとのトリオにサックスの
デューイ・レッドマンを加えた通称アメリカン・カルテットを結成、カルテットの音楽にはオーネット
コールマンとの共演歴があったレッドマン・ヘイデンによるフリー・ジャズの要素や、ゲストとして
パーカッショニストのギレルメ・フランコやアイアート・モレイラらが、しばしばバンドに参加した
ことからエキゾチックな民族音楽の要素もみられた
初期にはアトランティックやコロムビア、中期にはインパルス、ECMといったレーベルに作品を
残している
もうひとつのバンドである通称ヨーロピアン・カルテットは、パレ・ダニエルソン、ヨン・クリステン
セン、そしてジャレットと並びECMを代表するミュージシャンであるヤン・ガルバレクという3人の
北欧出身ミュージシャンを擁するカルテットで、ECMに5つの作品を残した
スタイルとしてはアメリカン・カルテットに似たものの、こちらはヨーロッパ民謡に影響を受けた
音楽を展開している
❏❏ 1980年代以降 ❏❏
1977年のゲイリー・ピーコックのアルバム" テイルズ・オブ・アナザー "が初めての顔合わせとなった
キース・ジャレット、ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットの組み合わせによるトリオは
1983年になって再びマンフレート・アイヒャーによって集められ" スタンダーズVol.1 " " スタンダーズ
VoL2 " " チェンジズ "の3つのアルバムを発表した
当時これまで各々の活動を続け、各々の音楽性を持っていた3人が伝統的なスタイル、オーソドックスな
スタンダード曲によるジャズを演奏し発表するというのは意外なことで、ジャズ界を沸かせた
この通称スタンダーズ・トリオは80年代以降のジャレットを代表する活動となり、2000年代に入った
現在まで25年以上、継続してライヴを行い作品を発表し続けるジャズ史上でも稀有なユニットとなった
また、80年代後半から90年代にかけては、本格的なクラシック音楽のレコーディング活動を行っていて
これまでも" イン・ザ・ライト "など自作のクラシック作品を演奏・録音してきてはいたが、ECMのクラ
シック部門であるECM New Seriesの創設、その第1弾であるアルヴォ・ペルトの" タブラ・ラサ "の
レコーディングへの参加が、ジャレットの最初の本格的なクラシック・現代音楽作品の録音となった
同アルバム収録の" フラトレス "でジャレットはギドン・クレーメルと共演している
その後ジャレットは1987年のJ.S.バッハの" 平均律クラヴィーア曲第1巻 "を手始めとして、自身が作曲家
として影響を受けたというJ.S.バッハとショスタコーヴィチ、ほかにはヘンデル、モーツァルトなどの
作品を取り上げている
一時、慢性疲労症候群を患い暗い闘病生活を送ったが、1998年に入ってピアノが弾けるようになり
ようやく復活の兆しがみえたころに自宅のスタジオで録音されたのがピアノ・ソロ作品" メロディ・
アット・ナイト・ウィズ・ユー "で、この作品は療養中彼を献身的に支えた妻のローズ・アン・
ジャレットに捧げられている
翌年の同作の発表をもってジャレットは本格的に演奏活動を再開し、現在に至るまでソロとトリオの
双方で精力的な活動を続けている