日本のミュージシャンの凄腕が集まって作り上げた
ロックへの挑戦状
内田裕也とザ・フラワーズがメンバー交代で元4.9.1のジョー山中(vo)、元ビーバーズの石間ヒデキ(g)、
元ザ・タックスマンの上月ジュン(b)、和田ジョージ(ds)の4人による体制になり1970年2月に改名し再出発
内田裕也はプロデュースを担当し日本コロムビアから日野皓正・クインテッドとシングル" クラッシュ "
を発表した後10月に日本フォノグラムでアルバム" エニィウェア "を発表、同年に開かれた大阪万国
博覧会の出演中に知り合ったカナダのロック・バンド、ライトハウスに見出されメンバーはカナダへ渡る
地元でライヴ活動を重ね評価を上げた彼らはアメリカのアトランティック・レコードと契約し4月に
アルバム" SATORI "をアメリカとカナダで発売、同アルバムとシングル・カットされた" SATORI PartⅡ "
がカナダのチャートに入る
またライトハウス、EL&P、ドクター・ジョンなどのミュージシャンと競演ライヴも行った
1972年3月の帰国後、篠原信彦(key)がサポート・メンバーとしてバンドに参加、全国縦断コンサートを
行い、さらに1973年1月に来日するローリング・ストーンズの前座を務める予定だったが、来日は中止に
なり大きなチャンスを逸してしまう
1973年2月、アルバム" メイク・アップ "を発表、同年4月に京都円山公園音楽堂で行われたコンサートを
最後に解散する
§ Recorded Music §
1 SATORI PartⅠ
2 SATORI PartⅡ
3 SATORI PartⅢ
4 SATORI PartⅣ
5 SATORI PartⅤ
§ Band Member §
石間ヒデキ( G )
ジョー山中( Vo )
上月ジュン( B )
和田ジョージ( Ds )
ブラック・サバスのような瞬間も持ち合わせたバンドのマスター・ピースな1枚、ジョー山中の歌は
迫力がある
フラワー・トラベリング・バンド( 以下FTB )はこのアルバムを1972年にリリースしてカナダで売れ
その後1973年に解散、ヒッピー・フリーク、ドロップ・アウト、カウンター・カルチャー、前衛劇団と
いうようなものからこういう音楽が生み出されたということが本当にスゴイ
当時はある種のこう…まとまろうとする力かミクスチャか、そういうようなものが渦巻いていた
" SATORI PartⅡ "のヘヴィなシャッフルにのせて刻まれるギターのカッティング、ヴォーカルの咆哮
ギターのインプロヴィゼーション、シンプルな構成で押し続ける強烈なトラック、一方で" SATORI
PartⅤ "は、かなり複雑なリフから始まる変拍子が圧倒的、情念あふれるアルバムである
このアルバムのコンセプトは、ブラック・サバスがハード・ロックで黒魔術を演奏したのだから、我々
日本人はハード・ロックで読経することができるのではないだろうか…という試みにある
回答はもちろん" 可能 "だった
お経、迷える人生の地図、聴く地図、録音音楽の最終目的のひとつは聴き手が脳内の探索をするための
ひとつの良い地図になること
より良い地図はいい音楽、ぐちゃぐちゃの地図はダメな音楽と定義できる
くまなく脳内を巡り、人生を巡り、そこには何があるのか…そう、そこには" SATORI "がある
刺激的に東洋的なメロディと圧倒的なヴォーカル、全体を統一したコンセプトでまとめた構成、当時の
日本のバンドとしては、極めて新鮮で画期的な内容を持っていた
日本のロック史上のひとつの成果だと思う
FTBとなって2作目、上述したようようにジャパニーズ・ハード・ロックのマスター・ピースである
" SATORI "、石間ヒデキのギターが東洋風のフレーズを紡ぎ出せば、もはやジョー山中のヴォーカルは
ヴォーカルの意味をなさない、楽器としてFTBの世界観を構築している
すべてが渾然と一体になったこれまでどこにもなかった音楽を彼らは作り上げた
まさに70年代のブレーク・スルー…ジャケットと音楽が一体になった名盤中の名盤である
あの時代によくぞこれを作ったものだと、ただ当時は" やっぱりこういう感じのものしか海外には
出れないのか "なんて自虐的に思ったことも正直あったが、そういう単純は批判を押しのける深みが
このアルバにはある
今となってはこういう音のフォロワーも出なかったことから孤高のバンドの輝く1枚である