British Invasion - イギリスの侵略
1960年代半ばにイギリスのロックやポップ・ミュージックを始めとする英国文化がアメリカ合衆国を
席巻し、大西洋の両岸で" カウンター・カルチャー "が勃興した現象を指す言葉である
ブリティッシュ・インヴェイションを象徴するバンドとしては、ビートルズ、デイヴ・クラーク・
ファイヴ、キンクス、ローリング・ストーンズ、ハーマンズ・ハーミッツ、アニマルズなどが挙げられる
❋ ❋ ❋
❏❏ 背 景 ❏❏
1950年代末に、アメリカ合衆国のロックン・ロールやブルース・ミュージシャンの反逆的なイメージが
イギリスの若者の間で人気を博した
アメリカのロックン・ロールを模倣しようとする試みは、最初はほとんど商業的にはうまくいかなかった
ものの、トラッド・ジャズの触発されDIY精神に満ちたスキッフルが大流行した
イギリスのさまざまな地域で、若者たちが作ったグループがイギリスやアメリカの雑多なスタイルを組み
合わせて音楽を作るようになり、1962年に始まるマージービートや" ビートブーム "として知られる
リヴァプールでの動きはその一例だった
アメリカのティーンエイジャーはフェイビアンのようなシングル志向のポップに飽きていたという指摘を
する論者もいる
モッズとロッカーズという2種類の若者の" ギャング "が1960年代半ばにイギリスで誕生し、ブリティッ
シュ・インヴェイションの音楽に影響を与え、モッズ的美意識を有するバンドは非常に人気があったが
ビートルズのように両方の間でバランスをとっていたバンドも成功した
❏❏ 展 開 ❏❏
- ビートルマニア -
1963年10月、アメリカで初めてイングランドにおけるビートルズに対する熱狂に関する記事が新聞で
全国的に報道された
ビートルズが11月4日にエリザベス女王の前でロイヤル・バラエティ・パフォーマンスに出演し、音楽
業界とメディアは一気にこのグループに注目するようになった
11月の間だけでも、アメリカは主要な印刷媒体や2つのネットワークテレビ局の夕方の番組で" ビートル
マニア "として知られる現象に関する多数の報道が行なわれた
12月10日、CBSイブニング・ニュースのキャスターであるウォルター・クロンカイトは明るい内容の報道
を探しており、CBSモーニング・ニュースでマイク・ウォレスが放送したが、ジョン・F・ケネディ
大統領暗殺事件のため、その夜だけお蔵入りになった内容を再放送した
メリーランド州シルバースプリングに住む15歳のマーシャ・アルバートは、このリポートを見た翌日
WWDCのDJだったキャロル・ジェイムズに手紙を書き" なんでアメリカにはこういう音楽がないので
しょうか? "と訪ねたそうだ
12月17日にジェイムズとアルバートはビートルズの" 抱きしめたい "を放送、WWDCの電話は点滅
しっ放しになり、ワシントンD.C.のレコード店は在庫のないレコードを求めるリクエストを大量に受けた
ジェイムズがレコードを国中にほかのDJに送ると、似たような反応が起こったので12月26日にキャピトル
レコードが予定より3週間速く" 抱きしめたい "のレコードをリリース、ティーンエイジャーたちの学校が
休暇に入っている期間にレコードが発売されたということもあり、ビートルマニアがアメリカに素早く
広まった
12月29日には" ポルティモア・サン "が、多くの大人たちの冷談な意見を反映し、ビートルズの
" インヴェイション "を否定的に評価する社説を出した
この次の年だけで、ビートルズの曲は30回もホット100入りを果たしている
1964年1月3日、ザ・ジャック・パー・プログラムがBBCから許諾をとったビートルズのコンサートの
映像を" 冗談のつもりで "放送したが、3,000万人もの視聴者がこれを観ていた
この映像はほぼ忘れられているが、ビートルズのプロデューサーであるジョージ・マーティンはこの
せいで" 子どもたちの興味が掻き立てられた "と述べている
1964年の1月半ばに" 抱きしめたい "が突如チャートに出現し、一気にアメリカの主な音楽チャート
40種類のほぼ全てでトップにのぼりつめ、アメリカにおけるファヴ・フォー( Fab Four" すてきな
4人組 " )ことビートルズの長期のわたる強力な芸術活動の最初の成果となった
" 抱きしめたい "はキャッシュ・ボックス誌1964年1月25日号で1位、同年2月1にはビルボード・ホット
100で1位になった
1964年2月7日にCBSイブニング・ニュースはビートルズがその午後にアメリカに到着したことについて
のニュースを放送し、その中で特派員が" 今回のブリティッシュ・インヴェイションはビートルマニアと
いうコードネームで遂行です "とコメントした
2日後の2月9日の日曜日、ビートルズはエド・サリヴァン・ショーに出演、ニールセンの視聴率調査では
マイケル・ロスによると、エド・サリヴァン・ショーはしばらくの間" 暖炉の前でスリッパを履いてくつ
ろぐような気楽な経験 "とみなされており、1964年2月にテレビを鑑賞していた7,300万人の視聴者のうち
自分たちが観ていたバンドがどんな影響をおよぼすようになるのか、きちんと分かっていた若者は
多くはなかった
すぐにビートルズは大きく違うさまざまな反応を引き起こし、その過程でほかのどのバンドよりも頻繁に
コミック・ソングや時事ソングなどの題材になり、1964年から1965年の間だけで少なくとも200曲が
出たほか、ポール死亡説が流れた1969年などにもこの種のものがたくさん発行された
多くの反響のうち、熱狂を肯定的にとらえたのはイギリスのガールズ・グループであるケアフリーズの
" ウィ・ラヴ・ユー・ビートルズ "や" ラヴ・ソング・トゥ・ザ・ビートルズ "という副題がついている
パティ・ケイクスの" アイ・アンダスタンド・ゼム "などがある
大混乱に不満の意を示したのはアメリカのグループであるフォー・プレップスの" ア・レター・トゥ・
ザ・ビートルズ "や、アメリカのコメディアンであるアラン・シャーマンの" ポップ・ヘイツ・ザ・
ビートルズ "などがある
4月4日にビートルズはビルボード・ホット100シングル・チャートの上位5位を独占したが、その後上位
3位を独占したミュージシャンすらまだ出ていない
ビートルズはキャッシュボックスのシングル・チャートでも同週に上位5位を独占したが、1位と2位は
ホット100とは逆であった
グループのチャートにおける圧倒的な成功は1970年に解散するまで続いた
- ビートルズを超えて -
ビートルズが初めてホット100に入った1週間後、スプリングフィールズに参加した後にソロとしての
キャリアを始めたダスティ・スプリングフィールドがホット100に食い込む次のイギリスのミュージ
シャンとして登場し、" 二人だけのデート "で12位を記録した
スプリングフィールドはすぐにほかにもヒットを数曲だし、オール・ミュージックによると" 当時最良の
ブルー・アイド・ソウル歌手 "となった
1965年になるころにはブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストたちの新たな波が押し寄せ
ホリーズやゾンビーズのようなもっとポップなスタイルで演奏をするグループがいる一方、より野心的で
ブルース志向のアプローチをとるバンドも現れた
1965年5月8日、ホット100のトップ10は2位になったアメリカのグループ、ゲイリー・ルイス&ザ・
プレイボーイズの" カウント・ミー・イン "以外、すべてイギリスのミュージシャンの楽曲が占めることと
なり、その前の週のキャッシュ・ボックス・シングル・チャートのトップ10についても、6位が
" カウント・ミー・イン "だった以外、ほぼイギリスのミュージシャンが独占した
同年のビルボード・ホット100・チャートでトップになった26曲のうちの半分は、イギリスのミュージ
シャンであった
イギリスのアーティストが持ち込んだトレンドは1966年以降まで続くことになった
ブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストたちは、イギリス本国の音楽チャートも独占したいた
ビートルズのようなブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストの音楽スタイルは、アメリカの
初期のロックン・ロールに影響されていたが、このジャンルはインヴェイジョンのころまでに本国での
人気をいくぶん失っていたが、後に続いたイギリスの白人ミュージシャンのうち、とりわけローリング・
ストーンズやアニマルズのような数少ないグループはブルース、リズム、黒人文化などに根ざした音楽
ジャンルを再生させ、こうした楽曲を少なくとも若い人々の間で人気にし、より" アウトサイダー "的な
集団にアピールするようになった
こうした音楽は、1950年代にアフリカ系アメリカ人のアーティストが演奏していたときには概ね無視
されたり、拒否されたりしていたようなものであった
こうしたバンドは、アメリカの親や年配者たちが、反逆者で不健全だとみなされた
ローリング・ストーンズはブリティッシュ・インヴェイジョンから出てきた中では、ビートルズに次いで
もっとも重要なバンドとなった…ストーンズは8回、ホット100の1位を記録している
時としてこうしたバンドの演奏スタイルが理解されないこともあり、アニマルズのエリック・バードンは
アメリカで衣装や発言などを制限されて居心地が悪かったということを述べている
ブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストのうち、スウィンギング・ロンドンの時代のモッズと
結びつきの強いものは時として" フリーク・ビート "と呼ばれることもあり、とりわけアメリカのリスナー
にはあまり知られていなかったが、アメリカのガレージ・ロックに相当するような音楽を作っていた
野心的なイギリスのブルース・バンドはそういわれた
プリティ・シングズやクリエイションのようなバンドは、イギリスのチャートである程度成功し、よく
このジャンルの典型といわれる
比較的均質な世界規模で展開する" ロック "という音楽スタイルが1967年ごろに現れ、これがインヴェイ
ジョンの終りとなる
- アメリカ音楽への影響 -
シラキュース大学のポピュラー・テレビジョン・センター所長であるロバート・J・トンプソンによると
ブリティッシュ・インヴェイジョンによりカウンター・カルチャーがメインストリームになった
ブリティッシュ・インヴェイジョンはポピュラー音楽に非常に強い影響をおよぼし、ロックン・ロールの
制作を国際化し、イギリスのポピュラー音楽は創造性に満ち、商業的に見込みのある音楽産業の中心地と
しての立場を確立した
その後に登場するイギリスのパフォーマーが国際的に成功する足がかりにもなった
アメリカでは、ブリティッシュ・インヴェイションはおそらくインストゥルメンタルのサーフ・ミュー
ジック、モータウン以前のガール・グループ、フォーク・リバイバルの流行を終わらせ、1950年代末
から60年代にかけてアメリカのチャートを支配していたティーン・アイドルも一時的に抑え込んだ
このため、すでに名声を確立していたチャビー・チェッカーなどR&Bミュージシャンのキャリアに翳りが
みえ始め、リッキー・ネルソン、ファッツ・ドミノ、アヴァリー・ブラザーズ、エルヴィス・プレスリー
など、生き残っていたロックン・ロール・ミュージシャンが一時的にチャートでの成功から閉め出された
活動していたガレージ・ロックのバンドは、ブリティッシュ・インヴェイジョン風の曲調を取り入れる
ようになり、ほかにもたくさんのバンドが結成され、こうしてできたシーンからは次世代に主要な役割を
果たすことになるアメリカのバンドがたくさん生まれるようになった
ブリティッシュ・インヴェイジョンはロックというハッキリとしたジャンルの勃興に大きな役割を果たし
ギターとドラムを基本にシンガー・ソングライターが自作曲を制作するという形のロック・バンドが
中心となる音楽的潮流を作った
ブリティッシュ・インヴェイジョンと結び付けられるミュージシャンの多くは、トレンドが終わるまで
生き延びることはなかったが、一方でロックのアイコンとなったミュージシャンもたくさんいる