ピンク・フロイドの初期の中心メンバー…Roger Keith Barrett
1967年にピンク・フロイドの一員としてデビューするが、薬物中毒および精神病で体調を崩しバンドを
脱退、1968年以降はソロとして活動するが、1972年より後はミュージシャンとしては引退状態になった
共感覚であることが独自の感性を持つ作品として現れ、ピンク・フロイドはもちろんデヴィッド・ボウイ
を始め数多くのアーティストに大きな影響を与える
ピンク・フロイドの残されたメンバーにとっても、天才的な才能で自分たちを導いてくれたにも関わらず
業界や社会に馴染めず、精神を病んで去っていったシド・バレットの存在が心に重く残り続け、全盛期の
彼らの作品が圧倒的に深いテーマ性を持つ一因になったといわれる
❋ ❋ ❋
ケンブリッチの中流階級の家庭に生まれ、教育熱心で音楽に理解のある両親のもとで幸福な幼少期を送る
ネックネームである" シド "は、13歳のころに地元のジャズ・バンドでプレイしていたニュージシャンの
名前に由来するといわれる
また、後にピンク・フロイドでともに活動するロジャー・ウォーターズとは子供のころからの友人だった
画家を志望し、1964年にロンドン芸術大学のキャンパーウェル・カレッジ・オブ・アーツに進学、並行
して音楽活動にも強い関心を持ち、ウォーターズらとともにピンク・フロイドの母体となるバンドを結成
作詞、作曲、ギター、ヴォーカルを担当してグループを牽引する
1965年ごろからロンドンのアンダーグランド界でその名を広め、多くのアーティストと親交を持つ一方で
このころから過剰なドラッグ摂取の傾向があった
1967年にピンク・フロイドがメジャー・デビューすると、その端正な容姿と斬新な音楽性でバンドを
成功へと導く、しかし成功に伴うストレスやドラッグ( LSD )中毒が原因で精神のバランスを崩して
しまい、次第にレコーディング中や公演中にも奇行を繰り返すなど、音楽活動へも影響がおよぶように
なった結果、1968年にバンドを脱退する
1970年、ピンク・フロイドのメンバーやソフト・マシーンの協力を得て、ソロ・アルバム" 帽子が笑う…
不気味に "を発表、これが全英トップ40にランク・インするヒットを記録し、EMIはすぐさまセカンド
アルバムの制作を指示する
そして同年、2作目" その名はバレット "を発表、これらの作品からバレットは最初のサイケデリック・
フォークのアーティストとしてみなされている
いずれのアルバムも正常な精神状態で録音されたものではなく、ポップかつ眩惑的なサウンドに相反して
危機的な雰囲気を漂わせている
その後も新作の制作が計画されたが、精神の荒廃はそれを許さないところまで進行していて、バレットが
最後に公衆の面前に現れたのは、1972年に新たに結成したバンド、スターズとして数回のライヴをした
ときで、ほどなくしてバンドを辞めガール・フレンドとともに故郷のケンブリッジへと帰った
その後も熱烈なファンからの要望で、さまざまな音源がレコード化されてきたが、いずれも納得のいく
作品ではなかった
1988年には未発表音源を集めた編集盤" オペル "が発表された
1970年代半ばからは、完全に実家に引き篭もってしまい、以後、精神病に苦しみながらかつての印税収入
と生活援助を糧に隠居生活を送った
晩年になってもパパラッチなどにその変わり果てた姿を捉えられることが何度かあったが、ミュージ
シャンとして復帰することはなかった
最晩年は極度の鬱病が発症してしまうことから、ピンク・フロイドのメンバーとの面会は許されず
糖尿病の合併症から失明寸前になっていたといわれている
死後、実妹がバレットのケンブリッジでの生活についてサンデー・タイムズのインタビューに答え、
その中でシドの精神病は過度に強調されていることが示唆されていた
また、美術史に関する研究書の執筆に傾注していたことや、地元住民と大変友好的な関係を築いていた
ことも語られている
❏❏ 音楽シーンへの影響 ❏❏
ほんの5年足らずの活動期間にもかかわらず、その卓越した音楽センスと抜群のカリスマ性から、
バレットを信奉するミュージシャンは数多い
リアル・タイムで彼を目撃してきた世代はもちろん、その後の世代にも多大な影響を与えてきた
デヴィッド・ボウイはシド・バレット時代のピンク・フロイドの楽曲" シー・エミリー・プレイ "を
カバーするなど、バレットから強く影響を受けたことを公言している
また、彼は膨大な数のバレットの絵画作品をコレクションしていたという
彼の死去の際には「 どれだけ悲しいか言葉にできない シドからものすごく影響を受けた 60年代に
観た彼のギグは絶対に忘れないだろう 」というコメントを発表している
同じくグラム・ロックの代表格であるマーク・ボランもバレットの大ファンであり、バレットの憧れて
カーリーヘアにしたといわれている
ちなみに、彼が所属していたマネージメント事務所はピンク・フロイドが設立した会社" ブラックヒルズ
エンタープライズ "であり、これはバレットに近づこうとしていたためではないかといわれている
そのほか、ブラーノメンバーも影響を受けたと公言しており、ドキュメンタリーDVD" ピンク・フロイド
&シド・バレット・ストーリー "にはメンバーのグレアム・コクソンが出演している
イギリスのフォーク・シンガー、ロビン・ヒッチコックも大きな影響を受けた一人である
デビュー前から交友のあったミック・ジャガーもバレットのファンだと語っていた
ザ・ジャムのポール・ウェラーが「 シドのような音楽を作ろうとしていた 」と語ったり、ダムドが
バレットにプロデュースを依頼したりと( 実現はせず )さまざまなエピソードが残っている
❏❏ エピソード ❏❏
❆ " シド "の通称は、学生時代に入り浸っていたパブの" シド・バレット( Sid Barrett )"という名前の
名物ベーシストに由来する
そこの常連客で間で、もうひとりのバレット( ロジャー・キース・バレット )もまた" シド "と呼ばれ
るようになった
ただし、2人を区別するために綴りを" Sid "ではなく" Syd "に変えている
❆ ピンク・フロイドが発表したアルバム" 炎~あなたがここにいてほしい "のレコーディング中、
バレットは何の前触れもなくスタジオに姿を表したとメンバーたちが証言している
しかし体重が増加し、髪の毛や眉毛を剃っているなど、その変わり果てた風貌から当初は誰もバレット
だと気づかず、ミキシングをしている最中も座ったまま黙って聴いていたという