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Jimi Hendrix - ジミ・ヘンドリックス -

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ミュージシャンでシンガー・ソングライター
James Marshall Hendrix…Jimi Hendrix

 

ジミ・ヘンドリックスは1942年11月27日7、アメリカ・ワシントン州シアトルに生まれた

インディアンの血をひく母親は、ヘンドリックスが10歳のときにアルコール中毒で亡くなった

ヘンドリックスがエレクトリック・ギターを初めて手にしたのは12歳のとき、そのころ聴いていたのは

B.B.キングエルモア・ジェイズなどブルースのミュージシャンだったという

1960年、15歳のころナッシュヴィルのアマチュア・バンド、カジュアルに参加、のち17歳でハイスクール

を中退した彼は庭師の父親の仕事の手伝いなどをしていたが、1963年になると軍隊に入る

所属は第101空挺部隊と呼ばれるところで、後にバンド・オブ・シプシーズを結成することになるビリー

コックスとここで知り合いバンド活動を始めるが、パラシュートの落下で負傷したヘンドリックスは

1964年に除隊した

除隊後ナッシュヴィルを起点にプロフェッショナルなギタリストとして働き始めたヘンドリックスは

ソウル系のミュージシャンのバックを多くこなし、1964年から1966年にかけて渡り歩いたバンドは

サム・クック、チャック・ブラウン、ジャッキー・ウィルソンなど40以上になるといわれている

そのうち、アイズレー・ブラザーズ、リトル・リチャード、カーティス・ナイト、ロニー・ヤング

ブラットとの仕事はレコードとして残された

 

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1966年、ヘンドリックスは自身のバンド、ジミ・ジェイムズ&ザ・ブルー・フレイムスを結成、グリ

ニッジ・ヴィレッジのいくつかのクラブで演奏し、この当時から右利きながら左手でギターを弾き、

背中回しや歯弾きなどトリッキーなプレイを見せており、また音自体も当時としてはとてつもなく大きい

音で演奏していた

そのうちに、" クレイジーな奴がいる "と評判になったヘンドリックスのステージを、アニマルズや

ローリング・ストーンズのメンバーも観にきて、特にアニマルズのチャス・チャンドラーはヘンド

リックスに強い関心を寄せた

ブルー・フレイムスが解散した後、ヘンドリックスはチャス・チャンドラーの誘いでイギリスに渡る

ことになった

そしてノエル・レディング(b)、ミッチ・ミッチェル(ds)とともにジミ・ヘンドリックス・エクスペリ

エンスが結成され、その4日後にはパリのオリンピア劇場でジョニー・アリティの前座を務める

その後イギリスに帰国したエクスペリエンスは、ニュー・アニマルズとツアーを行なう、またイギリスの

人気音楽テレビ『 レディ・ステディ・ゴー! 』に出演したのもこのころで、そのギターと存在感で

イギリスのロック・ファンを驚かせたといわれる

翌1967年に入ると、エクスペリエンスはクラブ・マーキーを始めとしてロンドン中のクラブに出演

しまくってより注目を集めるようになり、そしてレコード・デビュー、1stシングル" ヘイ・ジョー "と2nd

シングルの" 紫の煙 "が立て続けにヒットした彼らは、ヨーロッパ諸国を廻るツアーを行い、5月には1st

アルバム" アー・ユー・エクスペリエンス "をリリースし好セールスを記録した

 

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1967年春、アメリカに戻ったヘンドリックスは6月にモンタレー・ポップ・フェスティバルの最終日

18日に出演し、アメリカでの人気に火をつけた

有名なエピソードだが、この日ザ・フーと演奏順でもめたヘンドリックスとザ・フーは、それをコインで

決着、コイン投げの結果はヘンドリックスの敗北、ザ・フーがギターを叩き壊しドラムスをひっくり

返した後に登場したヘンドリックスは、ザ・フーを凌駕するような凄まじいステージを観せた…ギターと

セックスを模して、火を点けて燃やしてしまうシーンはあまりにも有名だ

1967年7月からはモンキーズの前座としてアメリカをツアーして廻り、以降はアメリカとヨーロッパを

往復する日々が続き、11月に2ndアルバム" アクシス:ボールド・アズ・ラヴ "をリリース、このアルバム

は前作に比べても格段のサイケデリック感を感じさせるもので、冒頭から音がパンニングされるさまは

3次元サウンドなどとも呼ばれた

1968年にアルバム未収録のシングルを集めた" スマッシュ・ヒッツ "をリリースしたジミ・ヘンドリッ

クス・エクスペリエンスはイギリスに戻り、次作の制作準備に入る

その間に" 見張り塔からずっと "がスマッシュ・ヒットを記録、これはヘンドリックスのヴォーカル・

スタイルに影響を与えたボブ・ディランの曲だった

夏にはニューヨークのエレクトリック・スタジオで" エレクトリック・レディ・ランド "を録音、アル・

クーパー、スティーヴ・ウィンウッド、クリス・ウッド、ジャック・キャサディ、フレディ・スミス、

バディ・マイルスなども参加したこの作品は2枚組アルバムとなった

リリースされた3rdアルバム" エレクトリック・レディ・ランド "は発表と同時にチャートを駆け上がり

ビルボード誌のアルバム部門でトップを獲得した

 

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翌1969年1月にジミ・ヘンドリックスはバディ・マイルスの2ndアルバムのプロデュースを何曲か手がけ

2月にはトラフィックソフト・マシーンを前座にロイヤル・アルバート・ホールのステージに立つ

またこのころ、ニューヨークのレコード・プラント・スタジオでラリー・リー、ジム・マッカーティ、

ビリー・コックス、ミッチ・ミッチェルなどと行ったジャム・セッションは、後に" ナイン・トゥ・

ザ・ユニバース "に収められた

エクスペリエンスは1969年のツアー中に崩壊、新しいグループ、ファット・マットネスを結成したノエル

レディングに代わりに、ビリー・コックスが加わったバンドは8月17日の" ウッドストック・アート&

ミュージック・フェア "に参加、このときの演奏は映画『 ウッドストック 』などで観聴きできる

1969年12月、ヘンドリックスはバディ・マイルス、ビリー・コックスを加えた新しいグループ、バンド・

オブ・ジプシーズのメンバーで、ニューヨークのフィルモア・イーストに出演、大晦日から元旦に

かけてこのバンド・オブ・ジプシーズのデビュー・ステージは" バンド・オブ・ジプシーズ "という作品

になり、" ライヴ・アット・フィルモア・イースト "でも聴くことができる

ここでタイトなサウンドを持ち、目指す音楽性をサポートし得るリズム・セクションを得たヘンドリッ

クスだったが、かつての愛着も断ち難かったかビリー・コックスとミッチ・ミッチェルの顔ぶれによる

エクスペリエンスも再結成して、気まぐれなコンサート活動も行っていた

1970年8月、ヘンドリックスは再編エクスペリエンスのメンバーで、ワイト島フェスティバルの最終日

30日に出演、その後、9月6日には西ドイツのポップ・フェスティバルの出演、1995年になって初めて

ドキュメンタリー映画化されたこのときのステージが最後の公式コンサートとなってしまった

 

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1970年9月18日、ヘンドリックスはロンドンのサマルカンド・ホテルで昏睡状態のヘンドリックスが

発見され病院へ運ばれるが、途中救急車の中で息をひきとった

直接の死因は睡眠薬の多量摂取による呼吸困難と診断されている…24歳、若すぎる死だった

その2日後にはエリック・バートン&ジ・ウォーと競演し、最後に" タバコロード "を演奏したという

ジミ・ヘンドリックスの遺体はワシントン州に埋葬された

❋       ❋       ❋

ジミ・ヘンドリックスは、60年代後半にロックのエレクトリック・ギター演奏における大変革をあらゆる

面でもたらした

独自の音響を得るために数多くのエフェクター類を試したというヘンドリックスだが、多くのスタジオ・

エフェクトのほかに、よく知られたヴォックスのワウワウ・ペダルを始め、ダラス・アービター・ファズ

フェイス、メイヤー・オクタヴィア、レスリー・スピーカーなど、60年代末までの存在したほぼすべての

エフェクター類に手を出していたともいわれるヘンドリックスは、頭の中で鳴る音楽、あるいは

サイケデリック的な意識下の音をこうした当時の最新技術で増幅しようとしたのかもしれない

ギター自体のほうは、右利き用フェンダーストラトキャスターに逆さに弦を張り、左利き用として

使用しておりアンプは大抵の場合、マーシャル100W・スタックを愛用していた

大音響を可能にする大出力のアンプとエフェクターを駆使し、音響における未知の可能性を追求した

ヘンドリックスは、今でこそロック・ミュージックにおいて当たり前な感じさえする、こうしたサウンド

上の試みを追求し後世に大きな影響を与えることになった

 

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上記のようなエフェクト、アンプといった要素のほかに、当たり前のように後世にジミ・ヘンド

リックスが与えた大きな影響として、その演奏テクニックが挙げられる

ヘンドリックスがシーンに登場した1967年ごろ、トレモロ・アームはロックン・ロール演奏において

目新しい小道具ではなかったが、それを操るヘンドリックスの手捌きが何といっても新鮮だった

彼以前には、基本的に音符やコードを揺らし微妙にヴィブラート効果を得る、といったあくまで味付け

程度だったこの装置を、ヘンドリックスは強力なフィード・バックと組み合わせつつ、ある音やコードの

ピッチを極端に落とすなどの暴力的なサウンドを得たり、あるいは爆撃、爆発音を真似るためのものと

して扱った

またヘンドリックスはそのほかにも、ピックや指をギターの弦上で滑らせ、物を磨り潰すようなノイズを

出したり、ギター本体を叩きつけてより大きなフィード・バックを得たり、といったようなアクロ

バティックだがその後のロック・サウンドに大きな影響を与えた奏法を駆使した

ジミ・ヘンドリックスがいなかったら…60年代以降、現在までのロック・ギターの行方は少し違って

いたのかもしれない

 

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これ見よがしに頭の後ろにギターを回し、肩の上辺りでギターを弾くパフォーマンス、あるいは歯や舌

を使ってリード・ギターを弾くといったアクションは、おそらくかつての黒人R&Bミュージシャンが

ショーもパフォーマーたちがステージ上で行っていた" 見世物 "的な要素から来ているのだと思う

こうした悪ふざけともいえるパフォーマンスは、初めこそ人の注意を惹くには充分な要素だったが、

晩年のヘンドリックス自身が" ピエロになるのは沢山だ "とインタビューで答えていたように、最終的には

マイナス・イメージの要素となっていった

その短いキャリアの中でロック・ミュージックにおけるギター・プレイの革命を起こしたジミ・ヘンド

リックスは、現在もなお" 伝説 "として語り継がれている

またジミ・ヘンドリックスは、イノベイティブな音楽を遺した業績はもちろんのこと、そのどこか音楽の

殉教者といえるような悲劇的な佇まいから、ひょっとしてたらロック史においてもっとも" 天才 "という

言葉が似合うアーティストといえるかもしれない

 

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