ジョー・コッカーのハリのある苦みしばったヴォーカルは、ソウルフルなヴォーカルを好むロック・
ファンに大きなカタルシスを与えた
かつてはミック・ジャガー、ロッド・スチュアートと並び称され、" 三大ソウル・フロムUK "などとも
呼ばれていた
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ジョー・コッカーは1944年5月20日、北部イングランドの工業都市シェフィールド生まれ
本名はジョン・ロバート・コッカー
まず、ジョー・コッカーが音楽に興味を本格的に示したのは、やはり彼が若いころに大ブームを捲き
起こしていたスキッフル( ブルース、R&Bやジャズといったアメリカ音楽をイギリス流にしたもの )
という音楽で、後にほかの音楽ファンが辿るのと同時に、かの地のリズム&ブルースへと興味は移る
リトル・リチャード、バディ・ホリー、チャック・ベリー、ジーン・ヴィンセントといったロックン・
ロールのオリジネイターたち、そして偉大なるブルース・マン、マディ・ウォーターズといったところを
聴き漁ったという
また13歳でドラムを始め、アマチュア・バンドを結成したりもしていた
そんなジョー・コッカーに多大な影響を与えるミュージシャンが登場…レイ・チャールズであった
セントラル技術学校を卒業する直前にラジオで聴いたレイ・チャールズの" ホワイト・アイ・セイ "が
キッカケとなりジョー・コッカーは彼の大ファンになったといわれている
16歳で学校を卒業したジョー・コッカーは2年ほどガス工夫として働いていたが、結局音楽への夢が
膨らみ、1963年にヴァンス・アーノルド&シー・アヴェンジャーズを結成、ローリング・ストーンズに
遅れること半年、イギリス・デッカからシングル・デビュー
しかしこれはヒットにならず、レーベルともめごと起こしたグループは、1964年ごろからフランスへと
渡り、アメリカ基地内のクラブ仕事で食いつないだという
その3年後の1967年、ジョー・コッカーはもう一度レコードをリリースしたい…との思いからデモ・
テープを制作、これを聴いたプロコル・ハルムのプロデューサー、デニー・コーデルは彼の才能を認め
ソロとしての初のシングル" マージョリーヌ "をリリースするところまで援助した
スマッシュ・ヒットとなったそのファースト・シングルから間もなくしてジョー・コッカーの名は大きく
広まることになった
セカンド・シングル" ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ( ビートルズのカバー )"
をリリース、これが全英チャート・ナンバー1を獲得した
その後、ジョー・コッカーはアメリカでの成功をレオン・ラッセルの助力もあって果たし、グリース・
バンドというこれも英国のアメリカ的なバンドのメンバーたちや、クラレンス・ホワイト、リタ・
クーリッジ、ボニー・ブラムレットなどの米国ミュージシャンたちと吹き込みを行い、名声を得ていった
こうして1970年代初頭にダウン・トゥ・アースな香り漂う名作を生み出した彼は、一時期ドラッグ、
アルコールの中毒となりかけた時期を送ったようだが、1980年代以降もコンスタントに充実した作品を
発表し続けた
ジョー・コッカーの、白人シンガーの中でも有数の良質なソウルを持った歌唱は、人種や国籍といった
ものより広い視野に立ち、本当におおらかな音楽の良さを思い出させてくれる
2014年12月22日、肺がんのためアメリカ・コロラドにある自宅で死去…70歳だった